難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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音をめぐる交流
一緒に音楽をやっていたチームのメンツとは、ごくたまに、思い出したようにメールをやりとりすることがある。メンツといっても自分より10も若いので、自分から見れば教え子のようなものだけど。常識ならお互いがいい大人なので、時効の挨拶や近況等伝え合ってもおかしくないが、全くいい意味で無礼講というか、思いついたことしか文章にしないので、ほとんど音楽の話だけで終始する。だから今どこでどんな生活なのかも知らないし、どこへ向かっているのかさえ、お互いが知らない。考えてみれば不思議な交流だ。でも、それがかえって純粋な音の交流になっているのかとも思う。
とにかくつい最近、ある気になった曲があって、あの子なら好きそうだと思って聞いてみたら、やっぱりその様子で、しかもタイムリーにはストライク過ぎて敬遠していたという。若さゆえの屈折がそうさせていたのだと。穿った見方をすると、そのことを自ら自意識過剰だと言っているようなニュアンスもあったので、ここは先輩としてフォローを。

・・・「自分は特別だ!」と思うことは、実は大事なことだ。むしろ特別だと思わないと、今の自分は存在しない。自分が、他の「よくいる」誰かであっていいわけがない。
そういうこだわりのないところにはいい音楽はないし、「何が美しいか」などという、あるようでないものさしをしっかりと持ち続けることができない。
これは若かろうと歳をとろうと同じことで・・・。ただ、若い時と歳をとった時に違うのは、あたりまえだが歳をとったときには老いた自分から若かりし時の自分が見えるのだ。その逆はない。歳をとった自分はこうなるに違いないと憶測するだけだ。
そう考えれば若い時に思いきり屈折することにも意味がある。特に、どんな音を選び聴くのかという問題などは、あえて「ない音」「ハズシた音」を聴いて対岸からメインストリームを見下ろすことで、ものさしがどこにあるのか確かめつつ自らの耳は肥やすことができる、言ってみれば大きくなるための冒険なのだ・・・。

音をめぐって音を聴く以外の方法で他者と交流するのは、音を聴くことができるもの同士でないと成り立たない。とても面白いことだと思う。最近もある掲示板に、文章だけでうろ覚えの曲の曲名を尋ねたことがあって、その筋に詳しい人がピンときてズバリ答えていただいた。
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さらば真空管よ
tube

僕は決してオーディオマニアではないのですが、それでも少しは音楽をかじってきた者として、また、「いい音とはどういう音であるか」を肌で感じていた最後の世代(ああ、こういう事を書くとオッサンっぽいなあ。「いい音を求めて結構散財した最後の世代」とでも訂正してみるか)・・・として、真空管を通したオーディオ信号が、耳にとってとても心地よいものだったことを記しておきたいと思います。

偉そうなことを書き始めましたが、その切っ掛けというのも、所有していた写真の機材がオークションで売れたからなのですが・・・。(やっていることと言っていることが逆行していないのか?)

これまでもこのブログでは、現代の(商業)音楽のインスタント化や、コンビニエンス化が、音楽にまつわる文化の価値を下げていて、音楽を聴くという行為が持つ意味を語ることさえできなくなったことを嘆いてきましたが、それはそれとして、真空管の音というのは、視覚化するなら音が艶々になるというか、空気感を伴って濃密になるというか、味覚化するなら旨味が増す、そういうものなのです。

確かに今のデジタル技術をもってすれば、お金などそんなに費やさなくても、「あの音」がヴァーチャルで再現されます。でもそれはあくまで疑似なのです。それを可としてしまうと、極端な話、ベートーベンでもバカラックでもスマホのゲームのBGMでも、どちらさんのお宅で鳴らしても同じ音です。

音楽が芸術であったり、美しいものを追い求める行為であるなら、こんなに乏しく、拡がりのない話はない。人間の耳というのは、すぐに慣れたりマヒしたりしてしまいます。美食を求めるように、美音にも気を使ってください。
ゴールデン・ルール
生きるとはなにか?どういうことか?
人はなぜ生きるのか?なんのために?
人類究極の問いであって、万人の問いです。このブログのテーマでもあり、過去には自分なりの考えも書いたことがあります。(そんなに前ではありません。よければ参照を。)
時にはこの曲のように、ゴールデンルールを説いて、「答え」を提示したくなる。しかし、そうした途端に、ではなぜそう言うことができて、それを言える存在が何なのか、その言葉が真に正しいと確かめる方法は何か、そういう疑問が出てきて、とりとめがなくなります。
バート・バカラックとハル・デビッド。もちろん哲学者ではないですが、二人がポピュラーミュージックの世界で産み出してきたものは、この究極の問いの答えにも匹敵します。僕はレコードやCDを聴くことで充分に心が打ち震えるものですから、これを壊したくなくて、気に入ったアーティストのコンサートほど足が遠のくのですが、バカラックが85歳にもなっていて、京都に来ると聞いて、妻に半ば引きずられながら京都コンサートホールへ出かけました。

京都コンサートホール1
京都コンサートホール2

やっぱり85歳ともなるとお爺さんです。小さいお爺さんには良く見受けられますが、ジャケットを着ると、体格が華奢で、後ろから見るとハンガーに掛けられた服のように見えるところなど、本当にただのお爺さんだし、足もとがおぼつかないのか、スニーカー履きで、歌も殆ど歌声になっていなくて・・・。周りのバカラックバンドの面々は、対照的に若く、エネルギーに溢れていて、バカラックのお爺さんぶりが余計に際立っていました。
ただし、ただしです。バート・バカラックが成してきたことというのはこの世界では揺ぎ無いことなのです。面々が相当な尊敬と畏怖を持ってこの巨匠に帯同しているのは手に取るように分かるし、曲が終わるたびにバンドの面々が巨匠に対して賛辞の態度をとるところを見るにつけ、何かこう、重要で取り戻せない瞬間瞬間が過ぎ去っていく、そういう感慨が込み上げてきました。同時に、いくらバカラックが賛辞を贈られ、賞賛されようとも、誰も彼の行きついた高みと同じ場所へは行きつくことが出来ないという確信。そういう意味ではこのお爺さんは世界一有名で孤独なお爺さんなのです。



アルフィーのテーマが締めの曲になるのかと思っていました。(このとき完全に僕は泣いていました)しかしそのあと、聴いたことない曲だと思っていたら、あろうことかつい最近発表した新曲ということで、これには参りました、耳を洗って出直してきますと言わざるを得ない。つまりは、生きるとはなにか?の一つの回答をもらったのです。
来年も再来年も、おこしやす 京都へ。
万物は流転する
久しぶりに更新します。
冬は冬で楽しみました。スキーはやっぱり中毒性が高いです。滑ること自体が爽快だということは疑う余地もないですが、シーズンに終わりがあって、一旦はブーツを脱ぎ、片づけなければならない、そういう名残惜しい瞬間のあるところもまたいい。3シーズンはジョギングして、来シーズンはもう少し上手くなりたい。雪はどのぐらい降るのだろう。そういう身体と自然に向き合った伸びしろに楽しみがある。
時は移ろい、身の回りにもいろいろと変化がありました。子どもが小学校中学年になりもうどう見ても幼子とは言えない人間になったこと。仕事に異動があり、環境が変わったこと。ガラパゴス化していたネット環境が現代的になり、仕事上必要だからということで遅ればせながらモバイル機器を持ち歩くようになったこと。バイクの呪縛から解放されたこと。地域やPTAの役を務めることになったこと。
かなり忙しい身の上になったことで、否定的だったモバイル通信を導入しましたが、この便利さに力を借りる場面が多くなると、なぜいままで否定的だったのかわからない、と感じている自分がいて、ハッとします。
今さらの議論かもしれませんが、便利さを否定するのではなく、便利さに鈍感になることや、身体機能が退化すること、行間を読んだり慮ったり、センスが平坦化して錆ついてしまうような無意識、無頓着、怠慢、これに自ら視点を持っていることが大切なのであって、そうでなければ人間はそのうち、手帳を上手に扱う者ではなく、逆に掌に載るような手帳に操作される単なる指になってしまう。
白い恋人たち
スキーで滑るのは、なぜこんなに楽しいのか・・・恐らくそれは、危険と隣り合わせだからでしょう。危険という言葉が悪ければ、冒険と言ってもいい。険しく生きる。振れ幅の大きい人生。危ない、危なくないの二元論ではなく、普段の生活から離れて、自ら自然と向き合える所へ身体を持っていくことが、ともすれば閉じこもりがちになる季節を待ち遠しい時間に変えます。
そうは言っても急にゲレンデに飛び出していけば、ケガをするかもしれない。もうそんな歳になったということです。身体を作るため、やっぱりジョギングはサボれません。(単なるジョギングも、それはそれで楽しいものです)

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