難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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肌色の絵は絵空事を越えたのか
今、僕の仕事というのも地域振興みたいな事をやらせていただいているんですが・・・。うーん。
こんな事を言うのは頭が古い証拠かも知れませんが、下記のような例というのは、言ってみれば幻想が社会進出してコミュニティが活性化しているという事ですよね?
あくまで、生身の人間がお客さんを呼び寄せているんじゃなくて、擬人化した幻想を介してコミュニティというか、人間の営みが成立すると・・・。
どういうふうに捉えたらいいのでしょうか。ほんとうに、これは地域振興なんでしょうか。現代人のリアルというのは、すでに肌色の絵の中に取り込まれてしまっているのでしょうか。うーん・・・。
仕事が忙しいので、つい、つまらない事を言ってしまう。早く休みになってキャンプに出かけたいですね。

http://news.mynavi.jp/news/2013/04/18/259/index.html

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これはファイナルアンサーなのか
長い間、多くの自分の考えを投稿して放置していた某掲示板の中で、今の自分が持つに至った考え方をこのブログに移植します。それは、シンプルかつ切実で、多くの人が課題としている、「(自分が)生きる意味とは何か?」という問いに対する回答です。

「生きる意味」・・・この掲示板で、このことを質問している人は数多くいます。それだけ、「生きる意味」を考えることは、多くの人の課題になっています。逆に言えば、今の世の中は、こうした問いを個人に想起させる世の中だと言えます。
例えば、あなたは生まれながらにして、「あなたが生まれたのはここからここまでの道路をつくり、維持管理するためなのです。」と決定付けられているとしたらどうでしょうか?確かに世の中の人間がみな一様に自分の生を抗えない力で決定付けられているのなら、誰も「生きる意味は」などと考えないでしょう。近代以前の封建的な社会では、これが当たり前でした。これはなにも職業の選択だけに止まらず、結婚や日常の常識とされることさえ、慣習がものをいい、そこから逸脱することは個人の裁量を越えたところにあるような時代だったので、身の回りの生活のあれこれは、万事が予定調和的な運びのうちにあって、誰も疑問には思う者はいなかったのです。
しかし、あなたも気付いているとは思いますが、今の世の中は違います。封建的な社会は滅びて、自由主義の社会なのです。誰でも、自分が思うさま、人生を歩むことができるのです。予め自分の生がどのようなものか決まっているような想定に対して、あなたが違和感を覚えるのは、あなたは「生きる意味」を問いながらも、暗黙のうちには「生きる意味」を見出すのは個人の裁量に任されているものであることをほんとうは知っているからです。
またあなたは、もう一つの違和感を持っているはずです。先の想定で、「あなたの人生はこれそれです。」とあなたに告げることの出来る存在が何なのか、そんなものはあり得ない。というものです。封建的な社会が独裁や専制の形を必要としていたように、個別の「生きる意味」を予め設定しようとするなら、それは人間を超えたところに絶対的な権力を持った何らかの存在を置かなければならないのです。今の世の中は、そんな世の中ではないことをあなたは知っているし、神様などの人間を超越した存在を信じるのは個別の志向でしかありません。
僕は神様や宗教を信じるなと言いたいのではありません。ただ、封建的な社会が滅びて、人間を越えるような存在を置くのは失敗だったと史実が証明しているからには、そういったところにはほんとうはないわけです。このように考えると、「生きる意味」というのは、少なくとも、誰が決められる訳でもなく、誰かが与えたり教えたりしてくれるものでもなさそうです。僕があなたに言えるとすれば、人間は、どんな人間でも、一生かかっても、すべての個別の人生を見渡すことなどできず、世界が何であるかを隅々まで知ることはできない。それを知っているはずなのに、誰でも今より次の瞬間を善いものにしようと活動します。まず、この事は何故なのかを考えなければなりません。そして、それをどこまで押し進めることができるのかは、全く個人の裁量であり、そこに自由があるのなら、出来る限り進めてみようと思うこと、その生き方こそ、意味を持つことだと言えるのではないでしょうか。

・・・これは正しいか正しくないか、そういう問題ではないと思います。だけど、僕はこう考えることができるようになった事により、割とスッキリした今の自分があると思いますし、もちろん、だからと言ってこれでおしまいでもない。
淀みは再び清浄化できるのか
何の罪もない人がいきなり刃物で刺されるといったような事件を耳にするようになりました。報道によれば、街には防犯カメラなるものが設置され、犯人らしき人物を映し出すこともできているようですが、傷ましい事件が起きた後となっては、無常感をぬぐい去る材料としてはあまりに貧弱なものにしか感じられません。私の住む街にはこういった設備はほとんどありませんが、こんな事件のような危険を感じる事はまずありません。もっと人目が届く社会だからだと思います。単なる田舎というなんでもない事実は、考え方によっては貴重な社会の機能を有した場所だとも言えるわけです。しかしこれも、都市部と比べて、というレベルですが。

このことを考えていたら、少し前に某掲示板で、70歳になった方が、「人生奮い立つような言葉をください」と書かれていたことに対し自分が書き込んだことを思い出しました。

私は仕事上、50歳代から70歳代のごく一般の市民の方で構成されるある組織の担当者として、それらの年代の方と日常的にお話する機会も多く、時にはこの組織の活性化のために、立場をわきまえずに意見を差し延べるようなこともあります。そんな中で一番感じることは、それぞれ大よそ10年単位の世代間で、持っておられる基本的な社会に対する姿勢や理念というものが異なっているということです。個人的な好みにすぎないのかも知れませんが、私は、現在の70歳代以上の方の考え方や発言には含蓄を感じたり、同調することも多いのですが、60歳代以下の方のそれにはそういった場面が少ないように感じます。もっと言わせていただけるなら、60歳代以下の方からは、社会性や公共性から逃れていくような示唆を感じることが多いのです。
少し遡って考えるなら、前述で私が問題視している年代というのは、団塊の世代と呼ばれ、日本の高度経済社会発展に寄与してきた世代です。彼らの働きにより、勤勉な国民性のイメージは定着し、続く世代も努力が生活の安定に繋がることを受け取りました。しかし、この世代の子どもたち、つまり私を含めた以降の世代に、それまで見なかったような問題行動や社会現象が起きているのはなぜなのでしょう?大きな経済の発展の影に、何か、人間それ自体の成長を妨げるような、重大かつ基本的事項の伝え欠き、置き忘れのようなものがあるのではないでしょうか?
私は、70歳代以上の人が言う事については、含蓄があると書きました。つまりそれは、団塊世代が後世に伝えていないものを感じ取るからだと思います。もしここまで読んでいただいたのでしたら、面白くない書き込みをさせていただいたことをお詫びしますが、あなたが何か、今以上の活動に奮起されるなら、この不躾な若輩者の言う事も片隅においていただきたいのです。

・・・昨今のPTA等の場でも、役員を選出したりする場面では必ず不調に終わって、難航するクラスがあると聞きます。面倒な事は自分がやらなくても誰かがやるだろう。公共性や社会性を自分から遠ざける卑近な例です。社会というのは、まさに川の流れと同じで、放っておくと個々の垢がどんどん淀みを作っていきます。淀んだ川の中では可愛い稚魚も大きく育たないし、やっぱり見通しも利かないので、犯罪も起き易くなるのです。
自分を知るとはなにか

自分のことがわからない。自分が見えない。自分は何が好きで、何がしたいのかがわからない。いや、わかっているのに自身が持てずに見えないふりをしてしまっている・・・。このような書き込みがありました。若者特有の、見方によっては羨ましくもある悩みだとも言えますが、この人は自分でも子供のころから親が厳しく「良い子」でいなければならず、自分を抑えてきたことも原因ではないかと、かなり冷静に分析もしています。自分を知る方法があるか、という質問です。


このカテゴリーの質問の中で、かなり多くの人が「自分のことが分からない」と質問しています。
でも、本当にそうなのでしょうか?例えばそれは、ある場面においては、「自分のことは自分にしか分からない」という考えを主張したくなるような事ってないでしょうか。もしそうなら、自己の中で矛盾していますよね。
あなたは、良い子でいなければならなかった。ことによるとそれは、トラウマに繋がるような環境だったかも知れない。しかし、「本当の自分」が別にあることを自覚し、「本当の自分」を抑えようと判断してきた自分というのは、立派な自己とは呼べないのでしょうか。もし、親が放任で、野放しの子育てをしていたなら、あなたはすでに自己を完成させていたと確信するのでしょうか。
あなたは、他の人とは違って、偏った考え方に陥ったりせず、ありのままの視点を持っている人です。文章を見ればわかります。あとは、今のうちに少し、漠然としたモヤモヤをクリアにしましょう。


・・・是非勉強してほしいと思い、ある哲学の本を勧めました。若い世代が、ある程度スタイルを追い求めることは仕方がないことですが、この情報過多の時代に、聞きかじったフレーズやメディアのギミックに踊らされるような中身のない人間になる前に、深く掘り下げることを体験してほしいものだと思います。世界は確かに広く華やかでもありますが、深い部分こそがほんとうの広い世界です。僕もこれぐらいの時にそれを知っていたかったですね。

コタツでは幸福になれないのか
ある20代の人の悩み投稿です。自分なりに日々の努力目標などを掲げ、実践しようとしますが、自分でそれができていないことに気が付いて、自信喪失。自己嫌悪。また、他人と上手く渡り合おうと意識をしすぎて、無難な態度に終始してしまい、そのことを振り返るたびに物足りなさや不甲斐無さを感じる。こういうことが積り、いつまでも自分に自信が持てない。また、その割には周りには華々しい情報があふれていて、自らの立ち位置とのギャップに・・・。

こういう人多いです。特に、まじめで、理想が高い人は陥り易い問題だといえます。後輩にもこういう人がいて、その人の文面を見ているようです。現代のこの年代には避けて通ることができない問題ともいえます。
私はこういう人に対面していつも同じ事を思うのですが、それは、「実に惜しい」若しくは、「実に期待できる、羨ましい」という気持ちです。健気だなとは思いますが、可哀そうだとは思いません。なぜなら、こういう人はまず、自分の事について自分で考える事が出来ます。また、そのような行為に割いている時間を持っています。また、例外なく、経済的には過不足のない環境で育ち、自身もそれなりの居場所に立てています。人見知りであることをマイナス面のように捉えますが、そもそも人見知りさせられる環境に居ることができるわけで、他人を完全に拒絶しているのでもなければ、遮断された環境に追いやられているわけでもないのです。
総じて何がいえるのかというと、全てが「これから」であるということです。また、人間関係の全般において、能動的にはまだ何も行っていないといえます。もともと、自己の内面に向き合い、自己に対して評価を行うことができるような能力があり、向上するような気概を持ちながら、他者との関係性や、社会のありようを考えていない、考え方が解らないために、自己と他者を相対的にしか捉えることができなくなっているのです。
「今日から心改め前向きにいきたいです。」の言葉が表しているように、自分の問題は全て自分に向けられ、常に自己内で完結するかのように考えています。
自分は泳げないから、水の中には入らない。でも、人よりも上手く泳げるようになりたい。こういう人は、自分の中に豊潤なロマンを抱えています。だからこそ、惜しいと思います。情報化時代に育ち、いとも簡単に理想を思い描く頭は持っていても、プロセスや過程に触れたことがないため、勝ち組負け組の二元論でしか語ることができないのです。

・・・その昔、学生時代に、僕の事を評して先輩が「オマエのその、コタツみたいな性格をなんとかしたい。」と言いました。おっしゃるとおり、確かにぬるかったですよ。しかし完全には腐らなかった。今年も勉強します。寒くてもコタツには入りません。
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