難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖03
友人と、デア・プランやアンドレアス・ドラウが馬鹿に徹する意義について話し合いました。チープで、プアで、何度やっても同じことしかできません。昨今、数回のマウスのクリックで、驚くほどカッコイイフレーズが飛び出してくる世の中です。 しかし、それを並べ立てればそれが勝ちに結びつくものではないのです。精一杯やった結果が、おもちゃ箱をひっくり返したような音であっても、それに驚愕し、泣き笑い、シュールな世界へいざなうこともあるわけで、一般的とは意味合いが違うとはいえ、 それを感動と呼んでも差し支えない。このことを疑うなら、ためしにやってみるべきです。いかに彼らのような馬鹿げたフレーズを創り出すのが困難なことか。いかに自分が小さな常識で縛られているか。そういったようなことです。
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とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖02
音楽でも美術でも、映画でも文学でも、人間の表現として作品が現れます。ということは作品である以上、それは絶対に作り手本人だけでは完結しない、つまり人間同士の関係性においてのみ成立する話になりませんか。 さらに、鑑賞者なりの受け手側は不特定多数ですから、それこそ千差万別の捉え方が出現します。もっとややこしいことに、これらは普通は商業的な価値も付随するわけで、これらが互いに影響の上で自分の取捨選択が起こるわけですから、自分自身の作品に対する評価なり選択だって、 かなり歪んだものとして自覚しないといけないのかな。そんなこと言い出したらキリが無いけど。そういうモヤモヤをスッキリさせたくて、現象学なんかをかじろうかと思っているんですが、これはこれでまた深みにはまりそうな世界です。
とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖06

全くバイクとライダーは、究極的には笑うため、笑われるためにカッコよくある存在ではないか、と思う。カッコよければカッコよいほど、語れば語るほど、滑稽さが増す。しかし笑われることがイヤだと思う心の狭い輩には、バイクに乗る資格がない。笑われることの倍も数倍も、自分のことを笑わなければ。 つまり、このことが内なるロマンの大きさなのだ。走れば走るほどに、この心地よさは、実は我が身の風化なのだと気付く。バイクに乗るまでは、取り入れることや取り込むことが心地よかった。だが今では、風に晒され、引きちぎられていく自分が心地よい。 空冷エンジンから立ち上る熱気と、一足も二足も先取りして感じる冷たい秋風が、容赦なく自分を遠くへ運ぶ。風化して引きちぎられたロマンの断片。これを散文に変えて、道すがらに投げ捨てておこう。 じゃまになるわけでも、誰が何を思うわけでもない。それは、この枯れかけた、落葉とともに土に還るのだ。全く、滑稽なことだ。


せっかくカッコいいライダーズエッセイが書けたんだが・・・友人には春樹の読みすぎだと言われ・・・そうなのか?もう、僕は、そうなのか? orz

とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖01
幸せだと思うのは、例えばボサノヴァと聴くとき、本場のボサだと、その素朴さを噛締めて、田舎に起こったセンセーショナルな出来事として楽しむことができるし、 ヨーロッパ産のボサを聴いても、それが勘違いであったとしても、フランスやイタリアの敏感な人々が、エキゾチックな妄想を膨らませながら作ったんだなあ・・・それを両方楽しめるところ。自分の中では、ボサノヴァは国境を越えている。それでこんなハンドルネームになっているんですが、ジョビンはいくらギャラを積んだって、TR-808を使ってレコーディングしたりしなかったでしょうね。しかしデジタルの恩恵(弊害でもある)により、似たような幻想を形にはできますね。昨今は。
とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖05

人の常識感覚について、今昔変わったことと変わらないことを端的に言ってみたい。

まず変わらないこと。今の季節、率先して暑い暑いと声高に叫んでいる人は、暑がりなのかと思いきや、冬は冬でいの一番に寒いと叫ぶ。

変わったと思うのは、携帯の着信音に、自らのお気に入りのアイドル歌謡を「憚ることなく」使用することだ。昔なら恥ずかしい曲やタブーな音というものがあったと思う。しかし、今では人が何を聴いているかを指摘することのほうが恥ずべきことなのだ。 曲をダウンロードして、携帯する。当然ヘッドフォンで聴くだろう。手軽で、しかも素早くて、簡単にそれなりの音質が得られる。この一連の営みの中には、どこにも他者の目が介入する余地がない。音楽はもはや、時代の共有物であったり、人々の共感を得る手段である時代ではなくなったのだろうか。これは、 古臭く、逆行した考えだろうか。音楽というのは、こんなにもインスタントなものでいいのだろうか。いい音とか、良い作品というのは、もっと手の届かない所にあって、大切にされるべきなのではないだろうか。得がたくて、手間や時間のかかるものだからこそ、文化はその質を高めるのではないだろうか。

レンタルレコードで、カセットにエアチェックの時代は、普通の音楽好きでも良質な音を求めて最大限努力した。それは単にマニアックな個人的趣味というよりも、そのこと自体が音楽を関わる人全ての共有物にしていたと思う。今のように単に消費するだけでなく、聴く者にも能動的な姿勢が必要だった。ということは作り手も聴き手も、全体で音楽文化を生きたものにしていたのではないか。もちろん、経済効果も健全。今から見れば回りくどい事にお金を費やしたものだ。って歳がバレるな。

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