難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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ミュージック・アニメーション・マシーン
音楽の父、大バッハが、これを見たら「なんじゃあこりゃあ!?」って言うんでしょうか。僕としてはこれはこれで好きです。

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本当のほんとうはどこにあるのか

今日はシンプルにいきたいと思います。まず、こういう質問が某掲示板にありました。


自分の事を「性格悪い」と思っているのと「性格はそんなに悪くない」と思っているのではどちらが性格悪いと思いますか?


切り口として面白いと思いましたので、僕も下記のように考えてみました。


質問文においては、どちらの場合も、自分のことを自分で評価しているわけです。この条件の中だけでいうと、自分を「悪い」と評価する行為の中には、事実をありのままに捉えている部分と、「悪いが、良くなりたい」という意識が隠されているのではないでしょうか。
一方、「そんなに悪くない」と評価している場合は、暗に悪い性格を認めながら、さらに悪いものを掴んでおり、また、「良い性格」があることも知りながら中庸で妥協している意識が見える気がします。
よって、前者のほうが好転する可能性はあると思います。


・・・人間の自我は多面的で複雑です。一見すると、「そんなに悪くない」としているほうがポジティブであるような気がしますが、裏側まで突き詰めると、どうなんでしょうか。

美人が絶対に得をするのか

少し前に、「可愛らしい立ち居振る舞い」について書いたと思いますが、今度はもっと切実、と言いますか、「美しい容姿」についてのお話です。あるキャンパスに、美人の友人を持つ女性が常に行動を共にしています。すると、サークル活動でもなんでも、その友人は異性同性を問わず誰からも声をかけられるばかりか、様々なお誘いや特典を受けている。自分も、と奮起し、能動的に声をかけたり行動したり、親切にしたりと過ごすうちに、美人の友人と自分とを比べると、バカらしくなってきた、と言います。「やっぱり美人は得だ。自分には、甘い恋愛や楽しい思いは無縁ではないか」・・・このことについて、考えてみました。


まず、どうしようもないことがあります。人間が、美しいものに惹かれるという事実です。このような質問を投稿しているあなた自身だって、美醜についての価値基準や序列を明確に持っているからこそ、悩むわけです。
しかし、目の前に現れる何かが美しいかどうかという基準は、各個人一様に同じものだと言い切れるのでしょうか。また、ある人が美人だと共通認識されていても、それがほんとうの意味で各人に同じ「美」という統合された単一の感覚によって捉えられているのでしょうか。つまり、美の見え方、感じ方さえ、人によって違うものだとはいえないでしょうか。
原理的に言えば、美というのは人間が持つ自我の内実の一つです。自我は、善い、ほんとう、美というものに惹かれ、その可能性をめがけて人間を突き動かすものと言われています。たとえばあなたが今日まで築いてきた価値観なり価値基準というのは、生まれてからこのかた、一時も絶えることなく、あなたにとって何が善くて、何がほんとうで、何が美しいのかを目指すうちに、自分の中で育てると同時に他者から影響を受けることを繰り返しながら出来上がってきたものです。世の中の人間がみな漏れなくこのことを持っています。世の中は、他人との価値基準の受け渡し合い、認め合いが常識とかルールを作り出していることで成り立っています。
そこで、あなたのキャンパスですが、現に「可愛い子」が他者からの認められに付随する各種の現実的な利益を享受しています。しかしその「可愛い子」は、この世の中で絶対的な美を持っているから、そうなっているのではないですね。先のことから言えば、キャンパス内にいる他者が、その人のことを個々人で評価しているのですが、その数だけ存在する美のイメージが、キャンパス内である一定の共通認識に至っている、言ってみれば、概ね美しいとされる妥協点を見出しているということです。
また、美が絶えず動いている人間の自我の一つの共有アイテムだとすると、美の価値基準は人々の間で様々に揉まれる中で、どんどん変容していくものだと言えます。また、より高い価値というのは自我が目指す可能性のことを考えると、次々に塗り替えられるものであるばかりか、様々な価値の形態を生むような細分化により拡散していくものだと言えます。
美というのはあたなが考えるように人間の価値の中では大きなものではありますが、それが全てを決定付けるものでもないのです。また、時間と共に形態を変えていくものです。このように考えると、(表層が)美しいということだけに固執することには限界があると思います。人間の自我はもう少し複雑なので、美しいだけで誰かが好きになってくれたり、楽しい思いをするのではありません。また、美しさが現れるのは、一番目に付くところは表層でしょう。しかし、表層が美しいのならそれに見合う内面も用意される必要があります。美人であるが故に、一人の人間と交際していくときに自分の内面の無さがより際立つことを悩む美人もいるでしょう。逆に、と言ってはなんですが、表層に見所がない場合には、内面の美しさが表層を凌駕することもあり、例えばあなたの彼となる人があなたの内面の美しさに気がつくなら、それは自我同士の営みとして、表層に捉われているそれよりも、より人間の本質に近く、数段高い所にいると言うことができます。


・・・関係性の世界を生きる人間にとっては、見た目、表情が与える影響は大きくなることは確かですが、結局は一個の人間と対峙するということは、その内面が占める割合のほうが大きい。見た目の印象とは、実は自分自身のちっぽけな価値基準で照らし合わせただけのものなのです。また、僕個人としては、表層が内面をそのままに現しているような、そんな薄っぺらなパーソナリティには、あまり深みはないと思っています。



俗世間は馬鹿馬鹿しいか

20代といえば、普通の人なら、人生の上で最もいろんなことがある時期であり、身体も精神も、いろいろな見聞を広める時だと思います。ある人は、その中で、同世代が熱中したり、ハマったりしている様を冷めた視線で見るにつけ、「くだらない」「馬鹿馬鹿しい」そう感じながらも、このまま他人と価値観が合わず孤立してしまうのではないかと不安に駆られます。このことについて、僕も考えてみました。


あなたの考えておられることは、まさに「ごもっとも」です。しかしこの同意や同感は、たまたま私がそうだと共感するから「ごもっとも」だと思うわけです。
私もあなたのような年齢のころは、大学の友人たちと価値観が合わず、あまりにも合わなさ過ぎるので逆に面白がられたり、自分自身もそのポジションをむしろ楽しんでいるようなところがありました。
しかしお気づきかも知れませんが、私(の過去)はあなたに共感していることで既に、まったく孤立無縁であるということはないのです。あなたの価値観が今現在、あなたの周囲の人と合わないというだけです。確かに、少数派であるかも知れませんが。
人間は、関係性の世界を生きる動物だと言われています。これは、人間が自我を持っていることに由来します。私たちは、生理的身体的欲求にのみ従属して生きているのではありません。むしろ、お腹がいっぱいであっても、充分に睡眠をとっていてもなお、自我の本性である「善い」や「ほんとう」を求めることが主体となって生きているのです。例えば「善い」を求めるのは、具体的には何が「善い」とあなたに認識させるのかと言えば、それは他者と認め合いを行うことなのです。選択肢AとBがあり、AがBよりも善いとするとき、多くの価値観がBよりもAと認め合わなければ「善い」認識は生まれ得ない。社会というのは、こうした関係性の網の目なのです。
安易なこと、低俗なことを周りがもてはやしていることに意義を見出せない、こんなことは自分にとっての「ほんとう」ではないと感じるのでしたら、安易や低俗なものが生まれる原理を考えてみましょう。安易や低俗が多くの人間の「善い」に支えられていることも確かですが、それらのことが「安易」であり、「低俗」であるという認識があるということは、そのように捉えている人間の価値基準も存在しているということです。また、「安易」や「低俗」の序列があるということは、その全く反対の世界も存在しています。あなたや私は、そうしたものにいち早く気がついて、そこへとめがけることができるのです。


・・・この人の心情、僕は良く分かります。まさに自分がそうでしたから。しかし当時は、そういうモヤモヤに、どう対応してよいか分からずに、虚無や厭世に苛まれたものです。でも本当の世界の広さとは、自分の目が届く範囲よりももっと広い。そして、自らが進み行くことができると実感したときに、あまりにも自分の一生が短いことに気がつくのです。

人生、好きなように生きるべきか

どういうことがあったのかは分かりませんが、ある人は、生きる上で出会う様々な「こうあるべき」に疑問を持ちます。そもそも、自分の人生なんだから、気の向くままでいいのではないか?何が正しくて、なにが間違いなのか?これについて、僕も考えてみました。


具体的に、ある人間がこれから執ろうとするある行動が、非道徳的であったり、非倫理的であったり、非常識的、非合理的であったりする場合、「それは間違っている」「誤りである」と指摘することは簡単だと思います。
しかし、実は、それとは逆に「それは間違っていない」「それは正しいことである」というのも、基本的にはこれと同じ原理なのです。つまり、道徳的で倫理的で、常識的、合理的だから、それは正しいのです。
ただ、誤りについてはそれが人々にとって世の中にとって不利益で、望まれる可能性を示さないので、指摘しなければならない必然が生じますが、正しい場合はそれがないため、周り人々や世の中のほうから求めて探ることを行わなければならない分、見つけにくいのです。
上述のことから解るように、「正しい」「誤り」というのは、道徳、倫理、常識、合理などの人間の価値基準に結びついているのです。ですから極端にいえば、絶対に正しく、或は絶対に誤りというものは存在しない。道徳、倫理、常識、合理は、人間が皆持っている価値基準の認め合いが生んだ「妥当」ともいえるルール体系なのです。それは人間が社会を支えあっている以上は必然的に編み出されるべき自我の共有の場だといえるのです。
結論としては、あなたがいくら「自分の好きなように生きるべき」だと断行したとしても、自我が他人との関係性を断ち切ることができないので、好きなように生きていることにはならないのです。これを越えたところは即ち非道徳、非倫理、非常識非合理の世界なのですから。これと同様の理由から、「現実を考えたり妥協しながら生きるべき」と宣言するまでもなく、あなたが生きていることそのものは、他人の価値基準(=自我)とすでに折り合って生きている姿そのものなのです。


・・・人間の世界は関係性の世界。ゆるいゴム紐で結ばれた世界で、互いに引っ張ったり押しやったりするネットが広がっている図式が思い浮かびます。あまりに個人の意識が尊重されすぎると、こうした関係性が見えない人が多くなる。「好きなように生きる」は、決してこのゴム紐を切り離すことではない、そう思います。

努力は夢を実現してくれるか

懸命に努力し、最大限やってはみたが、叶わなかった。努力すれば夢は叶うという言葉は嘘だ。そういう書き込みがあり、多くの人が「そのとおりだ」「それは間違っている」いろいろな返信をしていました。これについて、僕も考えてみました。


あなたの言っている事は、そのほとんどが正しい。それに、「もう自分には何もないと思う」ところまで行き着いた人というのは、なかなか居るものではありません。私自身そこまで行った記憶はない。立派なものです。
ただ、今現在大きな失望感に苛まれているからといって、世の中が決定論的に構築されていると考えるのは、気持ちとしては受け取れますが、正しい考え方とはいえません。「生まれ持ったもの」は出発点にすぎず、「向いている事向いていない事」は、初めから存在しているのではなく、あなたのようにこの世の競争ゲームに身を投じて、努力をし、極限まで行き着いたときに初めて現れるものだからです。ですから、「向いていることをやる」のです。
あなたにとっては、少なくとも、努力をしたことで叶わないことがあったにせよ、「自分を知る」という貴重なものを得たわけです。今は昔と違って、一個人がAでなければBもCも、自由に選択できる世の中です。一気に何段か階段を登ったあなたなら、その高みからいろんな道が見えるはずです。


・・・挫折や絶望が自分の視野を極端に狭めてしまう。自我というのは、こんなにも強力に「嘘」という事実や「裏切り」という現実から自分を守るのです。しかし、これそれが「嘘」である、叶わない夢が現状の結実であるという認識は、これも言わば自己評価の一つなのですから、こうした視点も自分が持っているのだということに気付き、こうでなければならないという凝り固まりから自由にならなければ、いつまでも同じところをグルグル回るだけになってしまう。このことも、夢を実現させるための一つの課題であると言えるのではないでしょうか。

イタリアには・・・
イタリアには、人間の感性やロマンに訴えかける何かがある。それは、昔も今も変わらない何か、時を経ても変容したり風化する事の無い、根源的な脈々としたもの。
今回は、秋のイタリア祭り大ロマンティック大会です。











自分を磨くとはどういうことか

自己啓発とか、自分探し、このような言葉が飛び交っています。一体これらは何なのでしょうか。ある人は、一念発起して、「今日から~~しよう。」と具体的な実践を試みるのですが、なぜか成果は見えず、続かない。周りを見渡せば、色々なことに着手し、活き活きと生活している様を見る。どうして自分はこうなのか。

このような悩みに、僕も考えてみました。


「自分を磨く為の行動」を起こす動機が何であるのか、考えた事がありますか?
もっと言えば、「自分を磨く」とはどういうことなんでしょう。なぜ、自分を磨かなければならないのでしょうか?
ここで言う動機というのは、大きく2つあるのだと思います。一つは、自らの自我の惹きつけられに従う、つまり、明確な「こうでありたい」という自分自身の未来像に確信があり、そのために行動を起こす。もう一つは、自身の未来像については漠然としたものしか持ち合わせないが、周りの雰囲気が、何と無く自分にこうあれと要請しているような気がして、行動せざるにはいられない状況に追い込まれている。
人間は、誰でも自我の中に今よりも、より良い、よりほんとうの、より美しい自分というものを想定しています。また、このことがなければ生きられません。そして、人間の最終的な恐怖とは、死と他者の目です。これから逃れ、一方では自分の自我の求める惹きつけられによって、日々の生活を送るのです。ただし、他者と自分の自我の有り様は、大筋では一致していても、持てる立場や状況を作り出している以上は、微妙な差分が生じているので、何かを成そうと思う人にとっては、日々の小さな挫折は付き物です。これを怖がり、また、面倒だとして避けることは、即ちこれは怠慢なのですが、自我は自分を守るためにこの怠慢というものに小さな安楽を用意しているのです。確かに、面倒なことを避けていれば楽になるでしょう。そのこと自体は悪いことではないにしても、恐ろしいことにそれは自分の初心というものを忘れさせます。何も躍起にならなくても、現状で充分、何が悪いのか?といった感覚です。しかし、これでは自分を磨くどころか、現状維持も危ういですね。
「自分を磨く」という行動は、言葉にしてしまうと生きる上での必修事項のような印象を与えるのですが、本質的にはそれをするかしないかさえも、個々人の裁量に任されているものです。つまり、するしないは自由に選択できますし、どこまでやるかについても規定が設けられているわけでもありません。だから、漠然としてしまうのです。
こうしなければ、或は、こうでなければならない、という話ではない
のです。そう考えて既成のカテゴリに節操無く手を伸ばし始めるよりも、真に自分が惹きつけられているものは何なのか、それにより近い、自分自身に出来るものは何があるのか、そのような考え方をしてみたらどうでしょうか?


・・・日常において、与えられている時間は万人に平等のはずです。しかし、より能動的な感性と、単なる安楽至上主義の受動的態度では、何にお金を使うかということと同じぐらい、時間の使い方は変わってくるでしょう。僕自身は、自己啓発、或は自分探しというのは、もうスタートの時点ですでにそれは、自分自身の問題とは言えない行為になってしまうと思うのです。誰かが用意したプログラムである以上は、それに倣っても、所詮それは契約とでもいうべきものであり、必ず見合う合理性が求められる。本質的な生の充足は、そんなものに求めてもやって来ないのではないか。結果を求めるあまりに、合理や利便に走ってしまう。実は、こういう事とは対極のところに、磨かれた自分というものが出来上がるのではないか。そう思います。

信用とはなにか(他人は信用足り得るのか2)

ある人は、自分の伴侶でさえ信用できない。つい、見えないところで自分の知らない何かをしている気がする。疑ってしまうのは、自分に原因があるのか・・・信じることは、なぜこんなに難しいのか。と悩みます。

これについて、考えてみました。


他人のことを信じる・・・良く使われる言葉ですが、考えれば考えるほど、なかなか腑に落ちません。
これは、「信じる」という言葉自体に、暗黙のうちに「こうでないと信じていることにならない」という概念が生じているからなのです。言葉として発せられたその瞬間に、すでに「信じるとはこういうものだ」という目に見えない幻想が含まれている。そうでありながらも実際に、自分と他人の「信じる」を比べてみれば、こうでなければならないと思っているものとは微妙に差異がある。好きな人や家族でさえも。これが腑に落ちない原因なのです。
人間は誰でも、唯一つの正しさに従って言動するのではないのです。原理的なことをいえば、個々の人間は全くバラバラで、思い描くことはマチマチです。もし、ある正しさが絶対的なものとして初めから存在しているのなら、それは人間を超えたところに、人間の上の存在として前置きする必要があるのです。神様とか宗教は、これを利用するのです。信じることは盲目と言われますが、原理としてバラバラな状態を一つの正しさに従わせようと言うのですから、盲目となるのは「信じる」ことの条件とも言えるわけです。本来、あっちを見るのも、これを気に入ることも自由なわけですから、そういったものに制約や禁止を後付けして、抑止し、目をつぶらなければ信仰というのは成立しないのです。
さて、そうではあっても、自分の周りに日常居合わせる人や、あなたの言う「好きな人」に対しては、「信じる」ことが欠かせないような気がします。これは当然のことです。あなたも含めて、日常顔を合わせる人にとっては、日々の生活を送るにおいて、共有する事項が沢山あるからです。例えば、一緒に過ごす時間です。みんなの自我は、一人ずつ思い描く「快さ」や「善い」を求めています。しかし、時間を共有しながら「快さ」や「善い」を見出そうとするなら、バラバラなものでは成り立たないのです。
結論ですが、「信じる」ことは、普遍的な唯一つの形を持っているわけではない。好きな人にさえも、一個の既成の「信じる」を外すな、とは言えないのです。身も蓋もないことを言ってしまえば、原理的には誰でも自分ぐらいしか自分の「信じる」を展開できません。しかし、「好きな人」や「大切に思う人」には、お互いに汲み取らなければならない必然があるのです。言ってみれば、既にある「信じる」をあてはめるのではなく、その関係性にフィットする共有項を見出して、育てていくこと、これが信用や信頼に繋がっていくものなのです。


・・・以前、信用をテーマに記事を書いたときは、「他人を信用することが危ういものなら、あえて消極的に構えよう」とする人に対して、可能性を閉ざすような姿勢では信用も何も訪れない、といったような話にしていたと思います。今回は同じ信用でも、成立している(と幻想する)ものをどこまで疑うのか、それに起因する悩みだったと思います。

とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖04(禁煙スペシャル)

禁煙はなぜ難しいのか考えていたら、自分はなぜ禁煙を実行するのかを考えざるを得なくなった。確かに他者に言われていることが直接の原因ではありながら、するしないの行為の決定は、結局自分の決断なのだから、これは自分に問うしかない

なぜ禁煙が必要か。思うに、まず長年に亘り喫煙してきた人間にとって、タバコが嫌いなもの、或は不味いものだと言うことはできない。むしろ、個人的には嗜好そのものは、タバコがもたらすものに合致していると言わざるを得ない。つまり、タバコとは美味しいのである。

健康上、喫煙が良くない影響を与えるというのは誰でも知っていることである。しかし喫煙者は、それを知りながらも喫煙を続けることができる。また、自身以外に、周りにいる他者にも少なからず影響を及ぼすので、マナーの徹底や分煙などの環境が出来上がった。 しかし、それでもなお、喫煙を続けることができる。こうしたことから言えば、喫煙とは専ら個人的嗜好の問題ではあるものの、社会的な視点も必要な時代になったということだと思う。喫煙することには自由がある。しかし社会的には分煙禁煙に向かっている。

人間は、安易や快楽に向かうことは容易い。嗜好が喫煙に合致しているからといって、日々のストレスの解消や、様々な理由を付加しながら、喫煙という行為に依存することは、分煙禁煙に向かう社会から見れば、それは古い体質や、悪習に引きずられているように見えるに違いない。 繰り返すが、喫煙を好むなら、いくらでも吸う事はできる。しかし、社会全体が禁煙に向かっているのなら、喫煙という行為は良くないものとみなされるだけでなく、喫煙者自身が安易な人間であり、環境に適応することに鈍感だというイメージを持たれてしまうことに繋がるのではないか。 禁煙について、およそこのようなことを考えた。

もう一つ、喫煙と禁煙とでは、結果が正反対であるにもかかわらず、喫煙してきたもの、愛煙家にとって、その行為の差は紙一重である。めでたく禁煙を打ち立てても、吸おうと思えばいつでも吸える。しかし、この簡単な行為が持つ重みは大きい。 かようにして禁煙に(再度)踏み出した。思えば自分の中のロマン性を大切にしている本分としては、煙草は一つの時間を作り出すことの出来るアイテムだった。それは同じように嗜好として位置づけている音楽やバイクに対するものと同じである。 しかし音楽やバイクと異なるのは、同じロマン世界のカテゴリで一つの位置を占めるとしても、社会から見れば、今や嫌悪され、過去の遺物と見做されようとしていることだ。確かに60年代のイタリア映画等を見れば、煙草はごく自然な彩りであったことが良くわかる。

禁煙するかどうかは、何が直接作用してそうするのかと問えば、それは結局、本人の意思如何ということに他ならないのではないか。健康を害する等の、言ってみれば動機付けをいくらでも並べることもできるが、結局はそれと同じように喫煙する理由にしても並べることはできる。 だとすれば、それだけでは禁煙は出来ない。それを乗り越えるのは、意志であると思うし、その意志を確固たるものにするのは、生きる上でどれだけセンスを持っているか、より善い生とは何であるか、そういう考えや認識が支えるのだと思う。

社会とは、個々人の自我の束であり、自我が常に善いやほんとう、美しいものに惹かれ行くもので、これらは常に編みかえられているものだと学んだ。つまり、生きている人々の求める方向が社会を形作っている。 そうであるなら、自らのこの意志や、センス、認識、こういうものだって、全く固有のものであるとは言えない。社会と個は、それぞれがバラバラなものだと考える事はできない。禁煙に絡めて、そういうことを考えた。

ある視点から見れば、それは現実への迎合、ポリシーに欠ける行為というふうに見えるかも知れない。でも禁煙に関しては、喫煙するという意志を貫くにはあまりに犠牲にしなければならないものが多い。しかもそれが段々大きく、増大している。そのことに気がつかなければならないし、 こういうことに敏感である態度こそが成熟だと思う。60年代や70年代が「いい時代だった」と懐古することは悪いことではないが、いつまでもしがみつくことは出来ない。人々の「善」の向かう先は、常に変容していて、社会は編みかえられているのだから。

あなたも大人であるなら考えてみよう

ちょっと前の話ですが、某掲示板の人生相談のカテで、以下のような東大の教授の発言が載っていました。


私は、何が幸福か不幸かっていうのは、もちろん人によっていろいろあるだろうけれども、すごいしんどい経験をした時にね、つらさ、苦悩というのも何か意味があるんじゃないかなと思うことにしようと。実は同じようなことを言っている人はたくさんいることが分かって。ナチスドイツの収容所に入れられた経験のある人で、ヴィクトール・フランクルという人がいるんですが。彼の本を読んでいて、すごい公式に出会ったんです。
その公式は、絶望=苦悩-意味って言うんですね。
左辺に絶望があって、絶望=苦悩-意味。これは何を意味するかというと、“-意味”を移行したら、絶望+意味=苦悩ということです。意味がない苦悩が絶望である。
で、苦悩と絶望は違うんだっていうことを、彼はアウシュビッツの経験から言っていて、私は同じことを18歳の時に考えて、全然違う時代と状況で似たようなことを考えている人がいるっていうことに出会って、すごく感動しましたし。何が幸福か不幸かっていうのを考える、そのさっきの三つのフィールドの議論の中で、すごく重要な意味を持つのかなと。苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見いださせれば、それは絶望ではない。新しい豊かな人生が見つかるかも分からないっていうふうに思っています。


これ、何かのテレビでの言らしいんですけど、掲載した人は、これをどう思いますか?と。


僕は東大の教授に対抗できるような頭脳は持ち合わせていないけれども、少し引っかかったもので、以下のように書き込んでおきましたよ。


確かに極限の状況に立たされた人にとって、こうした考え方が救いになるというのは解ります。
ですが、私の個人的な意見としては、「絶望=苦悩-意味」の公式の「意味」という部分に少し違和感があります。ここで言う「意味」というのは、人間が生きていく原理的な動機のことを指していると思いますし、そこに感情を加味するとすれば、「希望」と言えるものだと思いますが、私からすれば、その「意味」というものは、公式で言うならもっと上の、大きな項であつかうべきだろうという感覚があるのです。ですから、その公式に、「意味」の代わりに入れる言葉は、「手段」になります。
なぜなら、人間が生きていく原理的な動機というのは、自我の求める本質であることによると思うからです。「絶望=苦悩-意味」の公式では、絶望を、人間が生きていく原理的な動機(=意味)それ自体がなくなることでしか説明しえないことになり、「苦悩」も何もあったものではないことになるばかりか、「絶望+意味=苦悩」にあるように、絶望に人間が生きていく原理的な動機(=意味)を足した答えが苦悩であるとすると、生きることそのものが苦悩でしかないというネガティブな回答を導いてしまいます。
要するに、この公式は、人間が生きている中で起こる「絶望」や「苦悩」を、生きていることの一面であるというふうに捉えることができないのです。私としては、人間の生には、もっと本質的に、可能性や上のステージを目指すような動機があって然るべきだと思うのです。ですから、「意味」の中の一面として、「絶望=苦悩-手段」或は、「絶望+手段=苦悩」を置きたいと思うのです。


・・・ややこしいかなあ。理屈っぽいかなあ。いい線いってると思うけど。




「名作」の力とはなんであるか

芸術というのは、絵画でも音楽でもそうだが、創り上げる側と鑑賞する側には「創造物」そのものを境にして目には見えない隔たりというものがある。つまり、「美しい」や「善い」といった印象や感受は、創り出されたものを介して作者と鑑賞者が向きあう、この間にあるものであり、それはやっぱり自我同士の受け渡しの瞬間、幻想上の交流なのだと思う。

そうでなくても人間は、人それぞれに価値基準を持っていて、何が善いのか、何が美しいのかといった序列は、原理的には人の数だけ存在すると考えるのがまずもって前提なのではないか。

しかしそれでも、「名画」や「名曲」というものが世界に存在している。「名画」や「名曲」が多くの価値観に「名」に値すると認められているのは、この個々に異なる美の序列が、ある一致した方向をめがけている中で、お互いに承認し合った結果だといえる。

作品は、産み出され、他者の目に触れた直後から、鑑賞する者の価値の序列と比較対象されるうちに、これは何派の潮流で、何何という技法やエッセンスを用いながら、従って何何に分類され、属するもの。こうした分析が必ずといっていいほど行われる。人間の本性として、その作品が何であるのかを説明せずにいられないからだ。
しかし優れた芸術というのは、そのような作品のもつ個別の特質や技法の論議を越えて、人々の多くの価値観が一致を見出すような、つまり、美しいと感じることこそ自我の本性であり、様々な付加価値を取り去ってもなお、思い描かざるを得ないロマンを持つように呼びかける力を持っているものだと思う。
こういった原理とも言えることを万人に説明するのは難しい。それに比べれば、技法がその作品のどこにどれだけ実現できているのかといった説明のほうが容易いと言えるかも知れない。しかしそれ自体は、名作を名作たらしめている多くの人々の共有する価値基準、その成り立ちからみれば、とても小さな、部分的なことにすぎない。


その昔、「いいものもある、だけど・・・」ってスネークマンショウでやってましたが・・・誰でも薄ぼんやりと考えることを、グイっと掘り下げてみる・・・秋ですから。

ロマンとはなんであるか

僕は「ロマン」という言葉を日常的に使う人なのですが、人によってはこの言葉は胡散臭いものとか、今時恥ずかしいものとか、そういった印象を持つことがあるようです。また、概念として漠然としていて、使っているわりには直感的でない、少し自分とは距離のある、そういう言葉として位置づけられているのではないかと思います。


そこで僕なりに、少し勉強したことも絡めて、この「ロマン」という言葉を実感のある言葉に近づけてみたいと思います。以下は、「ロマンって何?」というある掲示板の投稿に、僕が書いた解答です。


一言で言うと、ロマンというのは「内なる世界」のことだと思います。さらに言うと、人間の存在を人間たらしめているものは、「善い」や「ほんとう」や「美」といった価値の秩序を持っていることなのですが、どんな人間でも、その生の原動や根源を突き詰めると、「真・善・美」に惹きつけられることに行き着きます。よりほんとうのもの、より善いもの、より美しいものを求めることが、全ての源泉になっているのです。また、価値の秩序を秩序たらしめるためには、他者との認め合いの関係が必要になります。人間は自我の中に価値の秩序を持ち、他者と認め合いを行うことによって、この価値秩序を育てていきます。
そこで「ロマン」とは、「内なる世界」だと書きましたが、「内なる」というのは、この人間が持っている自我のことです。そして「世界」というのは、自我の中に展開するその人の惹きつけられの地平、ベクトルのことです。あなたにも実感があるかも知れませんが、よく言われることに、ロマンと現実世界の折り合いというものがあります。つまり、内なる世界を膨らませることと、現実世界が自我に要請するものとは、相反するということです。芸術家に変人が多い理由は、あまりにロマン性が自我の多くを占領しているために、現実世界(他者)との折り合いがつかなくなっている状態なのです。
また、女性のロマン性が語られることが少ないのは、子どもを産むという性の本分が、自我の内実として現実世界に対応すべく働きかけているからだと思います。概して男性が夢想的で環境の変化に弱いことに対し、女性の環境適応能力が優れているのは、こうしたロマン性の占める大きさの大小を如実に物語るものではないでしょうか。


・・・どうでしょうか。まだまだ言い尽くせてませんね。考える一つの契機としてください。

時間とはなんであるか

秋です。今年の夏は暑かったですね。でも不思議な事に季節の移ろいは、生きているものにとって、何か焦りのようなものを要請すると思いませんか。やっと涼しくなったと安堵する一方、置いていかれまいとする漠然とした不安が心を過ります。

秋の空を見て、妙に言葉にならない郷愁を抱いたり、全てが遠い存在であると自覚したりする。それはきっと、時の経過を肌で感じることができる、この季節ならではの自然からの呼び掛け、人間が本質的に持っている進み行きの概念が成せる業ではないでしょうか。


前置きが長くなりましたが、今回は、上記に関連して、「時間」についてがテーマです。また例のごとく、某掲示板によせられた相談への解答から転載(一部修正)しますが、質問者は、やりたい事がいっぱいあるのに、絶対的な時間が足りない、いつも時間を気にしながら行動することが辛いので、どうすればいいか、と言います。これについて、以下のように考えました。


時間というのは不思議なものです。実質的な時の経過は万人には平等なはずであるのに、「忙しい」が口癖の人に限って何事も成していないとか、ヒマだヒマだといいながら、付き合いの悪い人もいます。私もあなたと同じように、やりたい事が沢山あって、全然時間がないじゃないかと悩んだ時期もありました。この時のことを振り返ると、実際成し得ていることは今と変わりがないのですが、気持ちにゆとりがなかったことが良く解ります。与えられた時間は一緒。成し得る範囲もそう大差ない。となれば、違うのは、精神面や認識の違いなのです。

つまり、こういうことなのではないかと思うのです。人間は、日々の生活の中で、時間を費やしていますが、何事かを成し得ようとしている時の時間というのは、その内容や進捗の状況等によって、「経ち方の感じられ」が異なるということです。もっと言うなら、時間とは、自分の欲求や価値基準に沿って過ごす時間もあれば、そうではなくて、義務的に費やさなければならない時間もあり、その内容や成果によって、自分が満足するかどうかの受け取り方が違ってくるということです。

また、このことに気が付くと、例えば自分にとって価値が高いと感じていることに従事する時間が膨大に、つまり、好き勝手に過ごせる時間が無限にあるとして、そこで自分が満足する何かを成し得ることができるのかというと、時間の際限のなさが自分のモチベーションに悪い影響を与えることがわかります。人間は、安易な方向には直ぐに流れていってしまいます。ここではそれは、時間の浪費ですが、こうした時間からは、成し得るもの、産み出されるものが少ないことが常です。

時間の経過と、自我の満足感は、必ずとも一致しないのです。時間をかければそれで自分が充実感、充足感を得るのか、というのは、少なくとも一概には言えない、というのが私の考えです。むしろ、義務的に献身しなければならない時間においても、自我の充足を求める行動をする姿勢こそが、希少な中で得られる、自分へ手向けられた時間を有効にするものだと思うのです。


秋の夜長、「時」について、あなたも考えてみましょう。

音楽のあるべき姿とはなにか

なんか以前書いた記事とカブるような気がしますが・・・やっぱりどうしても僕らの世代は、「音楽と人間」この関係の変化に一言申しあげたくなる立場にあると思います。(僕だけかな?)

例によって某相談掲示板に、ある高校生が「(商業)音楽でプロになりたいが、親から反対されていて、でもどうしてもやりたい。どう考えればいいか。」といったような相談に対して、僕が解答した文章を載せてみます。


今の世の中は、音楽、楽曲というものを大切にしなくなりました。一言で言うと、便利になり過ぎたからです。人間は、音楽を聞いて感動したり、美しいものを描いたりしますが、こうしたことがなぜ起こるのかというと、それは、音楽や楽曲を聴くということが、得がたく、かけがえのない体験であるからなのです。もう一つは、音楽や楽曲を聴くというのは、人々の間にある時間の共有感をもたらすものです。あなたもライブやコンサートに行った経験があると思いますが、その場所で得られる一体感を覚えているでしょう。異なる人間同士が、同じ時間を共有する時、言葉にできない充実感が訪れます。
しかし、こうした光景や、これまで音楽や楽曲がわたしたちにもたらしてくれた体験というのは、今の世の中で、なかなかお目にかかれなくなりました。レコード、CDなどの著作物の価値は、かつては万人にとって日常的なものでしたが、今では一部のコレクターにしか通用しません。しかも、純然に音楽を聴くためのものとして認められることも難しい状況なので、いろいろな付加価値を付けるしかないのです。なぜこうなったのか。音楽を聴く環境が、あまりに便利で、インスタントなものになってしまったからです。昔は、音楽をイイ音で聴こうと思ったら、相当な投資を必要としました。高級アンプに高品位なデッキ、大きなスピーカ・・・人々は、イイ音を聴くために、働いて、お金を貯め、秋葉原や日本橋に通い、カタログや店員とにらめっこし、死ぬ気で大枚を叩いたのです。こういう営みすべてが、音楽を中心として成り立っていました。もちろん現代から見れば、遠回りでもどかしい話ではあるのですが、音楽が人間の生きた文化だとすれば、そこにある憧憬や時間の密度が濃いほど、人間にとって重要なものになり、現代のように短絡的で消費的になればなるほど、人間にとって軽んじられる存在になってしまうことは、あなたにもわかるのではないでしょうか。
もう一つは、インターネットからダウンロードした音楽を、イヤフォンで楽しむという接し方がもたらすものが、音楽にとって何なのかということです。確かに便利です。しかし、手軽さは先にもあった「営み」というものを産み出しません。営みの中にある価値の付随がないのです。その上、手軽さゆえに大量消費です。ここでは、誰がその曲を作り出して、どういう労苦があって、世に出て以降、人々の間でどんな吟味があって・・・などということとは無縁です。また、あくまで個人的に消費されていきますから、そんな時代遅れの音楽聴いているなんて恥ずかしい、とか、そういうタブーがありません。その代わりに、音楽を通して人々が共有感を持ったり、一つの楽曲が大切にされることによって産まれる時代の彩りが無いのです。確かに何を聴いたって人それぞれ、ということは言えるかもしれませんが、文化の一形態である音楽の役割から見れば、そのような議論は音楽について何も語っていないのと同じことです。
こういう意味では、あなたのような夢を持った人にとっては、酷な世の中だと思います。
しかし、これは商業ベースの上の音楽の話です。音楽の扱われ方は確かに変わりましたが、音楽自体が持つ力は何ら変わっていません。少なくとも、音楽や楽曲をあくまで自分のロマン性の広がりとして大切にしていくのなら、歴史上産み出された数々の名曲を探求することや、自分自身が紡ぎ出す楽曲を模索することは、とても価値のあることだと思います。
少し難しい話になってしまったかも知れません。
これだけは言えます。「もし失敗してニートになって一番悲しむのは、やっぱり親だと思っています。」このような考えや気概では、音楽を完成させることも、音楽を切り捨てることもできません。あなたは、一生を親にぶら下がって生きるのではありません。いつの日か、自分の事は全て、自分で終始させなければならない日が来ます。その時に、まず親の事を慮るのでしょうか。そうではないはずです。増してや、音楽を作り出すのは親ではなく、あなた自身です。また、プロにならなければ音楽をやる資格がないと考える事も、成功しなかったから即ニートになるという考えも、単純過ぎます。今はまだ見えないかも知れませんが、音楽を本当に愛するのなら、どんな方法もあるのです。


・・・世の中、「個人の自由」この意味の取り違えから、他者とのかかわりを軽視し、最も重要なことを取りこぼしているように思います。音楽の接し方もこれと同じで、「誰が何をどう聴いてもあなたには関係がない」これを自由と捉えている感じがします。論旨の反復になりますが、なんでもありなのなら、どの楽曲がより優れていて、どんな録音が素晴らしいのかといった議論や、そこに生まれるハズの人々の「善い」の認められは、一体どこへいくのでしょうか?勿論、こうしたことが今の世の中に全く無いわけはないのですが、一部の人々のものではなく、音楽を聴く全ての人々のものでなければならない。接するスタイルの多様化の陰に、音楽の持つ価値の普遍性、こうしたものが人々の間から失われてしまうのは、僕は抵抗があるなあ。違うかなあ。

運命とはなにか

過去の自分の記述を漁っていたら、「運命とは変えられるものか、決っているものか」という質問に答えている文章が見つかりました。


運命というのは天命というか、予め定められた決定論なのではない。なぜならこの世の中は、一人一人が個別に持っている価値基準の意識、各人がどう考えているかという「考え」の寄せ集めで動いている場所なのです。人間が動物と異なるのは、身体の中に意識や価値基準を持っており、これを他者とぶつけ合うことでルール(=社会)を作っている面です。ですから、動物のように身体に奉仕するために例外なく同じ行動を繰り返すことはないのです。また、人間が個別に持っている価値基準は変動するものですから、当然、世の中の価値基準も常に移り変わることになります。そうはいっても自分は何も変わってないというかも知れませんが、今この文章を読んだあなたと、読む前のあなたが同じだとはいえないはずです。
そこで運命ですが、こうした世の中の織り成す綾の上にしか、運命もまた存在しません。ということは、運命それ自体も、動かない決定を持って現れるのではなく、様々な形でやってくるといえます。こう考えると運命は何も、「都合の良い事実」を指すものではなく、「都合の悪い事件」を指すものではない。つまり、予め決められた事というのは何もないのです。
結論としては、運命は、自分の意識だけで決定できるほど自由なものではなく、また、自分と全く関係のないどこかで決定されるほど届かない存在ではない。ということが言えるのではないでしょうか。
ただ、これが事実だとすると、運命についてロマンを含めた期待感を持っているような人にとっては、夢のない話になってしまい、逆に独我論的な理念を支えとしている人には邪魔な主張ということになります。恐らく、本を読んでどちらの考え方もあるというのは、こうしたことが原因なのでしょう。
本来なら、そのどちらかである、と結論付けられればスッキリするのでしょうが、残念ながらこの2つの考え方はその何れもが、あなたもおっしゃるように「考え方次第」、つまり、希望的推測ということになります。


・・・何か自分の思い描きどおりではない事項を、渋々納得して飲み込まなければならないとき、「仕方ない、これも運命だ。」等と言ったりします。コレは何も、予め決定付けられていたことを承諾しているのではない。過去と未来に亘り、様々な可能性や形の変容があることも理解しながら、たまたま自分にとっては思い描く形とはならなかったが、別な形に他者との折り合いを見つけ、それに従うことがより善いと判断する。つまり、一歩譲ることに意義を見出し、そこに自分自身で背中を押して進み行くために、あえて決定論であると思い込ませる。そういう行為だと思います。

大人として何を見出すべきか

僕も”気がつけば”いい大人です。この”気がつけば”というのは何とも残酷ですね。つまり気がついていない時に様々な可能性は過ぎ去っていて、二度と取り戻すことはできないわけですから・・・。

いや、しかし気を取り直して、今回は、「アラフォになって、自分はこれでいいのか、人としてあるべき姿があるのに、未だにどうしていいかわからない。人は人、自分は自分という世の中に甘えていた・・・。」そういう悩みに対して僕が考えたものを紹介してみます。


「人とはどうあるべきか」このような問いに対する究極の人間像が絶対的にあるとすれば、今の世の中のこの多様性とは一体何なのでしょうか。また、絶対的な存在というものを、一体誰が「こういうものだ」と言い得る権利を持っているのでしょうか。要するに、この世の中で、「こうでなければならない」というのが既にあると思う事は間違いなのです。しかし、だからといって、無軌道、無規範な世の中というものも、人間は認める事ができません。となると、そこにあるのは、人々の間にある価値の共有なのです。個々に違う多くの価値観が、ある一つの「善い」を共有、共感したとき、それが常識とか、ルールの中味となるのです。赤裸々なことを言ってしまえば、世の中のどこに、自分のことを横に置いておいて、優先的に人を助けようとすることのみに生きる人がいるでしょうか。「人と人とは助け合って生きていて」と言いますが、助け合うこと自体が個人の本来的な目的なのではありません。しかしなぜあなたに人間同士が助け合うことが「常識」であると思わせるのか。それは上述からすれば人間がそれぞれ持つ自我を認め合わなければ生きられないからなのです。あなたが年齢を重ねる事で、昔と比べて自分の内実が見えるようになったのは、つまりは自我のほんとうに求める事について自分で意識できるようになったからです。人間の内面の成長とは、身体機能的な部分のそれとは違って、自分の中のネガティブな部分に気が付く面もあると思います。しかし、そのことは何も後退ではない。より世界観が拡張していくうちの一部だということに過ぎません。まずいと思うのは、あなたがそのネガティブな感情に気が付いたとき、それが直ちにいけないことと位置づけて、漠然と身に着けてしまった既成概念にあてはめ、ようやく気が付いた自我を閉ざしてしまうことです。あなたも指摘しているように、「人は人、自分は自分」という考え方は、人間の、特に内面の成長に対して、何も答えを用意していません。今の世の中は確かに自由主義で、どんな考え方で人生を歩む事もできます。しかし、それを笠に着て、「人は人、自分は自分」を振りかざしていては、自分の人生とは何か、世の中とは何か、なぜ自分は生きているのかといった根源的な問いに触れる事はできないでしょう。恐らくあなたの周りの人なら言いそうですが、そんなもの考える必要がないと思うならそれでもよろしい。そういう人にはそれなりの人生があるでしょう。しかし人間には本来、「それなり」で善しとはしない自我の本性があるのです。私はそこに、人生の階段を登る要素があると思っています。そういう漠然とした問いを、漠然としたまま一生を終えるのか、確信に変えて歩むのかでは、数段違うと思うのです。


・・・私たちアラフォ世代は、世の中が急速に便利になって、合理的な生活があたりまえになるのをつぶさに観察してきたと思います。ということは、考える事もできる。合理的に生活することが、人間の間にある何か重要なものをすっ飛ばしても良い。ということになるのかどうかを。

自分が大事か他人が大事か

ある人は、自分以外の人間に興味がなく、思いやりの心情に欠ける自分に疑問を持っています。どうしたら他人に関心が持てるのか・・・という質問に、僕が解答してみました。


「自分のことしか好きじゃない」このことが本当なら、まだあなたには救いどころがあると言えます。
世の中には、自分のことさえ好きになれず、それが原因となって出口の無い悩みをかかえる人も多いわけですから。かくいう私もあなたと同じで自分のことが好きな人間なのですが、これを自分なりに分析してみると、「自分を好き」と言うには2つのことに確信が必要なのです。
まず一つ目には、自分自身の内面にオリジナルで明確な展望(ロマン性)を持っていることです。これはそれが現実的であるかどうかは関係ありません。要するに、自分(だけ)が信じているほんとうや良いもの、美というものに惹きつけられているかどうかということです。
二つ目には、自分の生活する環境において、1つ目の確信を持った自分自身が受け入れられていることです。これは要するにパーソナリティを他者に認めてもらっていることです。
「自他共に認める」という言葉がありますが、私が勉強したことによると、これは、人間が生きていることそのものだということです。先ほどの「自分が好き」ということに当てはめてみると、生きることそのものは、自分が自分自身(自我)を持ち、その自我を他者と認め合うことで成り立っているということですから、「自分を好き」だということは、生きるうえで中心となる心情に他なりません。
あなたは、「他人に興味がない」「思いやりに欠ける」と自己分析しているわけですが、上述のことからすると、他人に興味を持つことも、他人を思いやることも、自分の内面に何も無いところから引き出すものではないということです。ましてや、他者や周りの風潮や要請によって持つべきものだと認識するのは本末転倒です。
つまり、自分自身を認めてもらうためには、他者との関係性が絶対に必要なのですから、興味の有無、思いやりの有無はむしろ、関係性のためのスキルではなく、結果論的なものというべきなのです。
世の中には、いろいろな人間がいて、様々な人間模様が編み出されています。今現在、あなたが他人に興味を持てない、思いやれないのは、単に関係性が少ないからです。自分自身が内面の自我と向き合って、そこに奥深い展望を確認したときに、それを認め合えるような他者を自ずと求めるでしょう。そういう人は必ず現れます。それが世の中の広さというものです。


・・・今考えてみれば、質問者が自分のことを「思いやりに欠ける」と指摘しながらも、同時に「どうすればいいのか」という思いを抱いているということは、「このような状態は善いものではない」という一つの切り口がすでに用意されているということですね。

「可愛い」とはなんであるか

ある女性は、色香を強調して振舞う同性に対して嫌悪感を持っており、また、それをチヤホヤしてしまう男性諸氏に対して疑問を抱いています。「ぶりぶりした人を甘やかすとは何事だ」・・・「腹が立つ」とさえ言います。

このことについて、僕も考えました。


人間にはいろいろな価値観があって、それぞれが思い描く「ほんとう」や「善い」を持ちながら生きていけるのが今の世の中です。しかし、そうでありながらも、例えばあなたが言うように、可愛らしく振舞うことが多くの人間(特に男性)にとって「善い」ことであるのは、可愛らしい振る舞いが「いいものである」と感じることが簡単だからなのです。つまり、見た目や表層の態度は誰が見ても解り易い。だから共感を呼び易いのです。悪く言えば安易であり、「可愛らしい」を表現する人は「迎合」なのです。
第3者から見て、それをどう捉えるかは、原理的に人間が様々な価値観を持つ以上はいろいろな意見が生まれることでしょう。あなたが感じるように、「腹が立つ」のもその一つです。しかし、それを見て「腹が立つ」のは、あなたが薄々はそれが安易なものであり、軽薄なことだと感じていることによるのではありながらも、そのことを世界全体を見通すような視点から見れば、当事者同士の価値観と同じ視野の中にいる人間と何ら違いはないのです。「ぶりぶり」が安易で迎合なら、それに辟易する感受性も多大な影響を否定できない価値観から脱却していないわけですから。腹が立つ心情そのものは、反動には違いないのですが、原理的に言えば「ぶりぶり」が「善いもの」となっていることを暗黙のうちに了解していると言えると思います。だからこそ腹が立つのです。あなたがそれを見て腹立たしいと感じれば感じるほどに、「ぶりぶりした人」や「甘やかす人」と同じ価値基準で物事を捉える人間共同体の一部になっていくのです。
どうすれば腹が立たなくなるのでしょうか。本来は、人間の価値、自分の価値とは、見た目や表層だけで決るものではありません。また、そのようなことは、誰でも暗黙のうちには解っていることです。しかしながら、相変わらず皆目に付くことに流されていきます。一つには、自分の価値観の中に、こうしたことを総体的に原理的に捉えられるようにする視点を育て、自分らしい物事の見方ができるような下支えを造ることです。しかし、それを声高に「私はそんな安易な人間ではない」とただ主張するだけではダメです。その主張がある意味「ほんとう」であっても、共感を呼ばない価値観は孤立するからです。あなたのそのパーソナルな人間性や価値観が、周りの人々に自然に認められる時こそ、一段上の存在、一目置かれる人物になるのでしょう。なかなか難しいことですし、一時に成り立つ問題でもないですが、がんばってください。


・・・表層や馴れ合い、こういうものが許せないという心情は、良く分かります。しかしそれは、自分自身が1ランクも2ランクも上の価値観を育てなければならない入り口に立っているのだと言えないでしょうか。女性にとっては、男性よりも「可愛い」という一種の知見は、より身近なものです。だからこそ、問題となるのでしょうね。

音楽に癒しを求める?
僕だって仕事で疲れることがあります。しかし、そんな時は、できるだけ大きな音でこういう曲を聴いています。どこか遠くへ一瞬で連れて行ってくれて、泣いたりワクワクしたり、戻ってきたときには、いやあ、スッキリしていますよ。

他人は信用足り得るのか

かなり自覚を持って、あえて他人と深い仲にならないように振舞っているという人がいました。裏切られることへの事前の策だと言うのですが、一方で、これでいいのだろうかと自問しています。

世の中にはいろんな人がいますが、他人を信用するにはどう考えればいいのか、僕なりに考えて見ました。


これはどちらが先かという議論ではないのですが、自分と他者との関係性において、「合理性」や「利便性」を追求することと、「他人を信用すること」は、行為言動とその内実、結実や可能性の面から、別物であると考えることに非常に大きな取りこぼしがあるのではないでしょうか。
例えば「信用」ですが、仮に自分と相手方に立場の違いや格差が歴然としている場合でも、その相手方を信じるか信じないかの結果を出すためには、相手方に自分のことを諮らせること無しには成り立ちません。相手があなたのことを裏切るも裏切らないも、それは何もあなたの心の中の「想定」だけが原因となるのではなく、相手方があなたのことをどれだけ信用足り得るか、判断した結果も含まれているという事になるからです。
何事でもそうですが、他者との関係性は、それぞれの個々人が持っている自我同士の摺り合わせなのです。本来バラバラであるそれぞれの価値基準が、どこに共有や落としどころ、折り合いを見出すのか、それこそが、信用であり、常識やルール体系であり、広くは社会や世界を形作るものなのです。
計算高いあなたは、人より先んじて折り合いを予測するのだと思いますが、「深い仲は面倒ごとの原因」と予測するあなた独自の世界観が、せっかく様々な可能性を秘めている他者との相関を、あえて避けなければならない狭量な方向へと導いているものであると気が付かなければなりません。
あなたの「思い至り」は、漠然とした不安の中に、このことを抱えているのだと思います。


・・・”心を開く”とは、よく言われることですが、目に見えない自我同士がお互いの価値を比較できなければ、信用も何もないということだと思います。複雑な今の世の中で、立場の違いや考え方のギャップを前に、それを面倒だとして遠ざけることは、誰にでも出来る。でもそれでは、退行はあっても前進はない。他人のことが「関係ない」「分からない」この姿勢こそが、現代の野蛮な社会問題を引き起こす根源になっている、そう思います。

ほんとうの豊かさとは何か

実りの秋です。各地で収穫祭などが開催され、地球上で生きることの喜びをかみ締める季節となっています。でも、人間はお腹が一杯になっても、その次には心の中を満たしたい、豊かにしたい、そう考えざるを得ない存在ではないでしょうか。

豊かさとはなんでしょうか・・・この問いに、僕も考えて見ました。


例えば、世の中の物という物全てが買えるほどの財力があったら、果たして自分はその物を欲するという気持ちが湧くのだろうかと考えたときに、私の物質への欲というものは消えました。あれも私のモノ、これも私のモノだというのなら、所有することに意義を見出すことはできないのです。結果的には何も所有していないのと同じ事です。どこまでいっても、この宇宙に存在しているもの以外、手にすることなどできないのですから、金品や物質に対して「豊かさ」を求めることは有限なのです。
なかなか上手い言葉が見つからないのですが、無限のものをいかに自分の自我の中に捉えることができるか、というものが究極的には自分に「豊かさ」をもたらすのではないかと思っています。自分の存在もまた有限でありながら、人間は、例えばこの世の始まりはあるのか、とか、この世とは何かとか、時間とは有限か無限か、そういった自らを越える事項を想起できる存在でもあります。こういった究極の問いに対して、どこまで近づけるのかを考えたときに、自分のロマンがどこまでも満たされるような感覚、それが「豊かさ」なのではないかと思うのです。


・・・今の世の中、家にいてもいろんな情報が手軽に入手できます。しかしだからといって、様々な事象や物事を掘り下げずに、上っ面だけを捉えるような、そんな日常では、きらびやかな気分に自分が浸っているような気がするだけです。もっと能動的に、少しでもこだわってみましょう。人間は、それが実現可能かどうかわからないことでありながら、そういったことも思い描くことができる。そこに、ほんとうの豊かさがやって来ます。

世界のskmtは天才か凡人か

skmt教授の音楽の素晴らしさに魅了されたと思われる一人の音楽ファンが、なぜskmt教授の音楽は素晴らしいのか、一体、どこが優れているのか、といったような質問を掲示板に載せていたので、僕なりの意見を書いてみました。


私は専門家ではないのですが、彼らに影響されて楽器をさわるようになった人間として書かせてください。
教授は、確かに日本の商業音楽の作曲家としては独特の存在だと思います。あなたも感じておられるとおり、何か特殊なものをもっている気がします。しかし、教授の作品を過去から並べて聴いてみれば、やはり一人の作曲家、クリエイターとしての試行錯誤や変遷が読み取れますし、教授なりに時代的な音楽の潮流を掴み取りながら、ある意味では影響を受けることも、流れに乗ることも否定しないで作品を発表していると思います。この点においては、まるっきりの芸術家にあるような、鑑賞者を無視したアナーキーな人間ではないという印象です。
実際、音楽を作るとは、確かに理論が必要ですし、鑑賞者がいること、増してや商業ベースに持っていくことを考えるなら、聴く者のことを考えざるを得ない部分もあると思います。これを悪く言うなら迎合なのですが、教授が特に優れていると思うのは、音楽を聴くことに纏わる総体的なイメージというものを、自分自身から湧き出てくるイメージと一致させることに長けているのだということです。
少々哲学的になりますが、本来、自分が持っている「美しいもの」へと惹きつけられるときのイメージというのは、心の中にある幻想なのですが、これを他者に認めさせるためには言葉を介すなり、何かの実体的なものへと変換する必要があります。音楽の場合ではそれがメロディなのであり、メロディを際立たせるための音作りや理論なのですが、そういう訴求性が必要となるときに、いかに自らの最初の「美」のイメージどおりにコトを運ぶのかというのは、作曲上の最大の課題であると思うのです。
教授は、インタビュー等では、「作曲は、パッと浮かんだものが直ぐに消えてしまうので、捕まえなければならない。」というような発言をしています。私の推測では、このとき教授の頭に浮かんでいるものとは、フレーズの断片でありながらも、すでにそれは鑑賞者がどのようにそれを聴き取るのか、それをも見越しているイメージそのものなのではないかと思うのです。
私はその他、教授がメディア上で音楽以外の活動をしている部分や、環境保全や政治に対する発言等を見聞きするにつけ、彼は芸術家というよりも、イメージを操る職人といったような印象を持ちます。一番不思議、というか驚くのは、人間というのは例えばメロディを思いつくといった内なるロマン性がものを言うような部分が、年齢を重ね、現実世界に晒されることで徐々に霞んでいくことが普通であるのに、教授に至っては、浮き沈みはあるにしても、それがかなり長きに渡って保全されていることです。
しかし、本音を言えば私としては初期の作品のほうが好きなのですが。


・・・こんなこと僕が書いても、、、いいんですよね?あくまで、名も無き凡人の私的見解。

自らに活を入れる動画
今回はちょっと趣向を変えて、僕の地味なブログにも彩を。
大演奏家を前に偉そうな事は言えませんが、スクリヤビンの曲もさることながら、僕は生まれてこの方、ピアノにこんな音が出るとは知りませんでした。ただただカッコよくて、生きよう、もっともっと知ろう、少しでもホロヴィッツに近づこう、そういう活が、入ります。
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