難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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とりあえずテスト的に過去の戯言を移殖04(禁煙スペシャル)

禁煙はなぜ難しいのか考えていたら、自分はなぜ禁煙を実行するのかを考えざるを得なくなった。確かに他者に言われていることが直接の原因ではありながら、するしないの行為の決定は、結局自分の決断なのだから、これは自分に問うしかない

なぜ禁煙が必要か。思うに、まず長年に亘り喫煙してきた人間にとって、タバコが嫌いなもの、或は不味いものだと言うことはできない。むしろ、個人的には嗜好そのものは、タバコがもたらすものに合致していると言わざるを得ない。つまり、タバコとは美味しいのである。

健康上、喫煙が良くない影響を与えるというのは誰でも知っていることである。しかし喫煙者は、それを知りながらも喫煙を続けることができる。また、自身以外に、周りにいる他者にも少なからず影響を及ぼすので、マナーの徹底や分煙などの環境が出来上がった。 しかし、それでもなお、喫煙を続けることができる。こうしたことから言えば、喫煙とは専ら個人的嗜好の問題ではあるものの、社会的な視点も必要な時代になったということだと思う。喫煙することには自由がある。しかし社会的には分煙禁煙に向かっている。

人間は、安易や快楽に向かうことは容易い。嗜好が喫煙に合致しているからといって、日々のストレスの解消や、様々な理由を付加しながら、喫煙という行為に依存することは、分煙禁煙に向かう社会から見れば、それは古い体質や、悪習に引きずられているように見えるに違いない。 繰り返すが、喫煙を好むなら、いくらでも吸う事はできる。しかし、社会全体が禁煙に向かっているのなら、喫煙という行為は良くないものとみなされるだけでなく、喫煙者自身が安易な人間であり、環境に適応することに鈍感だというイメージを持たれてしまうことに繋がるのではないか。 禁煙について、およそこのようなことを考えた。

もう一つ、喫煙と禁煙とでは、結果が正反対であるにもかかわらず、喫煙してきたもの、愛煙家にとって、その行為の差は紙一重である。めでたく禁煙を打ち立てても、吸おうと思えばいつでも吸える。しかし、この簡単な行為が持つ重みは大きい。 かようにして禁煙に(再度)踏み出した。思えば自分の中のロマン性を大切にしている本分としては、煙草は一つの時間を作り出すことの出来るアイテムだった。それは同じように嗜好として位置づけている音楽やバイクに対するものと同じである。 しかし音楽やバイクと異なるのは、同じロマン世界のカテゴリで一つの位置を占めるとしても、社会から見れば、今や嫌悪され、過去の遺物と見做されようとしていることだ。確かに60年代のイタリア映画等を見れば、煙草はごく自然な彩りであったことが良くわかる。

禁煙するかどうかは、何が直接作用してそうするのかと問えば、それは結局、本人の意思如何ということに他ならないのではないか。健康を害する等の、言ってみれば動機付けをいくらでも並べることもできるが、結局はそれと同じように喫煙する理由にしても並べることはできる。 だとすれば、それだけでは禁煙は出来ない。それを乗り越えるのは、意志であると思うし、その意志を確固たるものにするのは、生きる上でどれだけセンスを持っているか、より善い生とは何であるか、そういう考えや認識が支えるのだと思う。

社会とは、個々人の自我の束であり、自我が常に善いやほんとう、美しいものに惹かれ行くもので、これらは常に編みかえられているものだと学んだ。つまり、生きている人々の求める方向が社会を形作っている。 そうであるなら、自らのこの意志や、センス、認識、こういうものだって、全く固有のものであるとは言えない。社会と個は、それぞれがバラバラなものだと考える事はできない。禁煙に絡めて、そういうことを考えた。

ある視点から見れば、それは現実への迎合、ポリシーに欠ける行為というふうに見えるかも知れない。でも禁煙に関しては、喫煙するという意志を貫くにはあまりに犠牲にしなければならないものが多い。しかもそれが段々大きく、増大している。そのことに気がつかなければならないし、 こういうことに敏感である態度こそが成熟だと思う。60年代や70年代が「いい時代だった」と懐古することは悪いことではないが、いつまでもしがみつくことは出来ない。人々の「善」の向かう先は、常に変容していて、社会は編みかえられているのだから。

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あなたも大人であるなら考えてみよう

ちょっと前の話ですが、某掲示板の人生相談のカテで、以下のような東大の教授の発言が載っていました。


私は、何が幸福か不幸かっていうのは、もちろん人によっていろいろあるだろうけれども、すごいしんどい経験をした時にね、つらさ、苦悩というのも何か意味があるんじゃないかなと思うことにしようと。実は同じようなことを言っている人はたくさんいることが分かって。ナチスドイツの収容所に入れられた経験のある人で、ヴィクトール・フランクルという人がいるんですが。彼の本を読んでいて、すごい公式に出会ったんです。
その公式は、絶望=苦悩-意味って言うんですね。
左辺に絶望があって、絶望=苦悩-意味。これは何を意味するかというと、“-意味”を移行したら、絶望+意味=苦悩ということです。意味がない苦悩が絶望である。
で、苦悩と絶望は違うんだっていうことを、彼はアウシュビッツの経験から言っていて、私は同じことを18歳の時に考えて、全然違う時代と状況で似たようなことを考えている人がいるっていうことに出会って、すごく感動しましたし。何が幸福か不幸かっていうのを考える、そのさっきの三つのフィールドの議論の中で、すごく重要な意味を持つのかなと。苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見いださせれば、それは絶望ではない。新しい豊かな人生が見つかるかも分からないっていうふうに思っています。


これ、何かのテレビでの言らしいんですけど、掲載した人は、これをどう思いますか?と。


僕は東大の教授に対抗できるような頭脳は持ち合わせていないけれども、少し引っかかったもので、以下のように書き込んでおきましたよ。


確かに極限の状況に立たされた人にとって、こうした考え方が救いになるというのは解ります。
ですが、私の個人的な意見としては、「絶望=苦悩-意味」の公式の「意味」という部分に少し違和感があります。ここで言う「意味」というのは、人間が生きていく原理的な動機のことを指していると思いますし、そこに感情を加味するとすれば、「希望」と言えるものだと思いますが、私からすれば、その「意味」というものは、公式で言うならもっと上の、大きな項であつかうべきだろうという感覚があるのです。ですから、その公式に、「意味」の代わりに入れる言葉は、「手段」になります。
なぜなら、人間が生きていく原理的な動機というのは、自我の求める本質であることによると思うからです。「絶望=苦悩-意味」の公式では、絶望を、人間が生きていく原理的な動機(=意味)それ自体がなくなることでしか説明しえないことになり、「苦悩」も何もあったものではないことになるばかりか、「絶望+意味=苦悩」にあるように、絶望に人間が生きていく原理的な動機(=意味)を足した答えが苦悩であるとすると、生きることそのものが苦悩でしかないというネガティブな回答を導いてしまいます。
要するに、この公式は、人間が生きている中で起こる「絶望」や「苦悩」を、生きていることの一面であるというふうに捉えることができないのです。私としては、人間の生には、もっと本質的に、可能性や上のステージを目指すような動機があって然るべきだと思うのです。ですから、「意味」の中の一面として、「絶望=苦悩-手段」或は、「絶望+手段=苦悩」を置きたいと思うのです。


・・・ややこしいかなあ。理屈っぽいかなあ。いい線いってると思うけど。




「名作」の力とはなんであるか

芸術というのは、絵画でも音楽でもそうだが、創り上げる側と鑑賞する側には「創造物」そのものを境にして目には見えない隔たりというものがある。つまり、「美しい」や「善い」といった印象や感受は、創り出されたものを介して作者と鑑賞者が向きあう、この間にあるものであり、それはやっぱり自我同士の受け渡しの瞬間、幻想上の交流なのだと思う。

そうでなくても人間は、人それぞれに価値基準を持っていて、何が善いのか、何が美しいのかといった序列は、原理的には人の数だけ存在すると考えるのがまずもって前提なのではないか。

しかしそれでも、「名画」や「名曲」というものが世界に存在している。「名画」や「名曲」が多くの価値観に「名」に値すると認められているのは、この個々に異なる美の序列が、ある一致した方向をめがけている中で、お互いに承認し合った結果だといえる。

作品は、産み出され、他者の目に触れた直後から、鑑賞する者の価値の序列と比較対象されるうちに、これは何派の潮流で、何何という技法やエッセンスを用いながら、従って何何に分類され、属するもの。こうした分析が必ずといっていいほど行われる。人間の本性として、その作品が何であるのかを説明せずにいられないからだ。
しかし優れた芸術というのは、そのような作品のもつ個別の特質や技法の論議を越えて、人々の多くの価値観が一致を見出すような、つまり、美しいと感じることこそ自我の本性であり、様々な付加価値を取り去ってもなお、思い描かざるを得ないロマンを持つように呼びかける力を持っているものだと思う。
こういった原理とも言えることを万人に説明するのは難しい。それに比べれば、技法がその作品のどこにどれだけ実現できているのかといった説明のほうが容易いと言えるかも知れない。しかしそれ自体は、名作を名作たらしめている多くの人々の共有する価値基準、その成り立ちからみれば、とても小さな、部分的なことにすぎない。


その昔、「いいものもある、だけど・・・」ってスネークマンショウでやってましたが・・・誰でも薄ぼんやりと考えることを、グイっと掘り下げてみる・・・秋ですから。

ロマンとはなんであるか

僕は「ロマン」という言葉を日常的に使う人なのですが、人によってはこの言葉は胡散臭いものとか、今時恥ずかしいものとか、そういった印象を持つことがあるようです。また、概念として漠然としていて、使っているわりには直感的でない、少し自分とは距離のある、そういう言葉として位置づけられているのではないかと思います。


そこで僕なりに、少し勉強したことも絡めて、この「ロマン」という言葉を実感のある言葉に近づけてみたいと思います。以下は、「ロマンって何?」というある掲示板の投稿に、僕が書いた解答です。


一言で言うと、ロマンというのは「内なる世界」のことだと思います。さらに言うと、人間の存在を人間たらしめているものは、「善い」や「ほんとう」や「美」といった価値の秩序を持っていることなのですが、どんな人間でも、その生の原動や根源を突き詰めると、「真・善・美」に惹きつけられることに行き着きます。よりほんとうのもの、より善いもの、より美しいものを求めることが、全ての源泉になっているのです。また、価値の秩序を秩序たらしめるためには、他者との認め合いの関係が必要になります。人間は自我の中に価値の秩序を持ち、他者と認め合いを行うことによって、この価値秩序を育てていきます。
そこで「ロマン」とは、「内なる世界」だと書きましたが、「内なる」というのは、この人間が持っている自我のことです。そして「世界」というのは、自我の中に展開するその人の惹きつけられの地平、ベクトルのことです。あなたにも実感があるかも知れませんが、よく言われることに、ロマンと現実世界の折り合いというものがあります。つまり、内なる世界を膨らませることと、現実世界が自我に要請するものとは、相反するということです。芸術家に変人が多い理由は、あまりにロマン性が自我の多くを占領しているために、現実世界(他者)との折り合いがつかなくなっている状態なのです。
また、女性のロマン性が語られることが少ないのは、子どもを産むという性の本分が、自我の内実として現実世界に対応すべく働きかけているからだと思います。概して男性が夢想的で環境の変化に弱いことに対し、女性の環境適応能力が優れているのは、こうしたロマン性の占める大きさの大小を如実に物語るものではないでしょうか。


・・・どうでしょうか。まだまだ言い尽くせてませんね。考える一つの契機としてください。

時間とはなんであるか

秋です。今年の夏は暑かったですね。でも不思議な事に季節の移ろいは、生きているものにとって、何か焦りのようなものを要請すると思いませんか。やっと涼しくなったと安堵する一方、置いていかれまいとする漠然とした不安が心を過ります。

秋の空を見て、妙に言葉にならない郷愁を抱いたり、全てが遠い存在であると自覚したりする。それはきっと、時の経過を肌で感じることができる、この季節ならではの自然からの呼び掛け、人間が本質的に持っている進み行きの概念が成せる業ではないでしょうか。


前置きが長くなりましたが、今回は、上記に関連して、「時間」についてがテーマです。また例のごとく、某掲示板によせられた相談への解答から転載(一部修正)しますが、質問者は、やりたい事がいっぱいあるのに、絶対的な時間が足りない、いつも時間を気にしながら行動することが辛いので、どうすればいいか、と言います。これについて、以下のように考えました。


時間というのは不思議なものです。実質的な時の経過は万人には平等なはずであるのに、「忙しい」が口癖の人に限って何事も成していないとか、ヒマだヒマだといいながら、付き合いの悪い人もいます。私もあなたと同じように、やりたい事が沢山あって、全然時間がないじゃないかと悩んだ時期もありました。この時のことを振り返ると、実際成し得ていることは今と変わりがないのですが、気持ちにゆとりがなかったことが良く解ります。与えられた時間は一緒。成し得る範囲もそう大差ない。となれば、違うのは、精神面や認識の違いなのです。

つまり、こういうことなのではないかと思うのです。人間は、日々の生活の中で、時間を費やしていますが、何事かを成し得ようとしている時の時間というのは、その内容や進捗の状況等によって、「経ち方の感じられ」が異なるということです。もっと言うなら、時間とは、自分の欲求や価値基準に沿って過ごす時間もあれば、そうではなくて、義務的に費やさなければならない時間もあり、その内容や成果によって、自分が満足するかどうかの受け取り方が違ってくるということです。

また、このことに気が付くと、例えば自分にとって価値が高いと感じていることに従事する時間が膨大に、つまり、好き勝手に過ごせる時間が無限にあるとして、そこで自分が満足する何かを成し得ることができるのかというと、時間の際限のなさが自分のモチベーションに悪い影響を与えることがわかります。人間は、安易な方向には直ぐに流れていってしまいます。ここではそれは、時間の浪費ですが、こうした時間からは、成し得るもの、産み出されるものが少ないことが常です。

時間の経過と、自我の満足感は、必ずとも一致しないのです。時間をかければそれで自分が充実感、充足感を得るのか、というのは、少なくとも一概には言えない、というのが私の考えです。むしろ、義務的に献身しなければならない時間においても、自我の充足を求める行動をする姿勢こそが、希少な中で得られる、自分へ手向けられた時間を有効にするものだと思うのです。


秋の夜長、「時」について、あなたも考えてみましょう。

音楽のあるべき姿とはなにか

なんか以前書いた記事とカブるような気がしますが・・・やっぱりどうしても僕らの世代は、「音楽と人間」この関係の変化に一言申しあげたくなる立場にあると思います。(僕だけかな?)

例によって某相談掲示板に、ある高校生が「(商業)音楽でプロになりたいが、親から反対されていて、でもどうしてもやりたい。どう考えればいいか。」といったような相談に対して、僕が解答した文章を載せてみます。


今の世の中は、音楽、楽曲というものを大切にしなくなりました。一言で言うと、便利になり過ぎたからです。人間は、音楽を聞いて感動したり、美しいものを描いたりしますが、こうしたことがなぜ起こるのかというと、それは、音楽や楽曲を聴くということが、得がたく、かけがえのない体験であるからなのです。もう一つは、音楽や楽曲を聴くというのは、人々の間にある時間の共有感をもたらすものです。あなたもライブやコンサートに行った経験があると思いますが、その場所で得られる一体感を覚えているでしょう。異なる人間同士が、同じ時間を共有する時、言葉にできない充実感が訪れます。
しかし、こうした光景や、これまで音楽や楽曲がわたしたちにもたらしてくれた体験というのは、今の世の中で、なかなかお目にかかれなくなりました。レコード、CDなどの著作物の価値は、かつては万人にとって日常的なものでしたが、今では一部のコレクターにしか通用しません。しかも、純然に音楽を聴くためのものとして認められることも難しい状況なので、いろいろな付加価値を付けるしかないのです。なぜこうなったのか。音楽を聴く環境が、あまりに便利で、インスタントなものになってしまったからです。昔は、音楽をイイ音で聴こうと思ったら、相当な投資を必要としました。高級アンプに高品位なデッキ、大きなスピーカ・・・人々は、イイ音を聴くために、働いて、お金を貯め、秋葉原や日本橋に通い、カタログや店員とにらめっこし、死ぬ気で大枚を叩いたのです。こういう営みすべてが、音楽を中心として成り立っていました。もちろん現代から見れば、遠回りでもどかしい話ではあるのですが、音楽が人間の生きた文化だとすれば、そこにある憧憬や時間の密度が濃いほど、人間にとって重要なものになり、現代のように短絡的で消費的になればなるほど、人間にとって軽んじられる存在になってしまうことは、あなたにもわかるのではないでしょうか。
もう一つは、インターネットからダウンロードした音楽を、イヤフォンで楽しむという接し方がもたらすものが、音楽にとって何なのかということです。確かに便利です。しかし、手軽さは先にもあった「営み」というものを産み出しません。営みの中にある価値の付随がないのです。その上、手軽さゆえに大量消費です。ここでは、誰がその曲を作り出して、どういう労苦があって、世に出て以降、人々の間でどんな吟味があって・・・などということとは無縁です。また、あくまで個人的に消費されていきますから、そんな時代遅れの音楽聴いているなんて恥ずかしい、とか、そういうタブーがありません。その代わりに、音楽を通して人々が共有感を持ったり、一つの楽曲が大切にされることによって産まれる時代の彩りが無いのです。確かに何を聴いたって人それぞれ、ということは言えるかもしれませんが、文化の一形態である音楽の役割から見れば、そのような議論は音楽について何も語っていないのと同じことです。
こういう意味では、あなたのような夢を持った人にとっては、酷な世の中だと思います。
しかし、これは商業ベースの上の音楽の話です。音楽の扱われ方は確かに変わりましたが、音楽自体が持つ力は何ら変わっていません。少なくとも、音楽や楽曲をあくまで自分のロマン性の広がりとして大切にしていくのなら、歴史上産み出された数々の名曲を探求することや、自分自身が紡ぎ出す楽曲を模索することは、とても価値のあることだと思います。
少し難しい話になってしまったかも知れません。
これだけは言えます。「もし失敗してニートになって一番悲しむのは、やっぱり親だと思っています。」このような考えや気概では、音楽を完成させることも、音楽を切り捨てることもできません。あなたは、一生を親にぶら下がって生きるのではありません。いつの日か、自分の事は全て、自分で終始させなければならない日が来ます。その時に、まず親の事を慮るのでしょうか。そうではないはずです。増してや、音楽を作り出すのは親ではなく、あなた自身です。また、プロにならなければ音楽をやる資格がないと考える事も、成功しなかったから即ニートになるという考えも、単純過ぎます。今はまだ見えないかも知れませんが、音楽を本当に愛するのなら、どんな方法もあるのです。


・・・世の中、「個人の自由」この意味の取り違えから、他者とのかかわりを軽視し、最も重要なことを取りこぼしているように思います。音楽の接し方もこれと同じで、「誰が何をどう聴いてもあなたには関係がない」これを自由と捉えている感じがします。論旨の反復になりますが、なんでもありなのなら、どの楽曲がより優れていて、どんな録音が素晴らしいのかといった議論や、そこに生まれるハズの人々の「善い」の認められは、一体どこへいくのでしょうか?勿論、こうしたことが今の世の中に全く無いわけはないのですが、一部の人々のものではなく、音楽を聴く全ての人々のものでなければならない。接するスタイルの多様化の陰に、音楽の持つ価値の普遍性、こうしたものが人々の間から失われてしまうのは、僕は抵抗があるなあ。違うかなあ。

運命とはなにか

過去の自分の記述を漁っていたら、「運命とは変えられるものか、決っているものか」という質問に答えている文章が見つかりました。


運命というのは天命というか、予め定められた決定論なのではない。なぜならこの世の中は、一人一人が個別に持っている価値基準の意識、各人がどう考えているかという「考え」の寄せ集めで動いている場所なのです。人間が動物と異なるのは、身体の中に意識や価値基準を持っており、これを他者とぶつけ合うことでルール(=社会)を作っている面です。ですから、動物のように身体に奉仕するために例外なく同じ行動を繰り返すことはないのです。また、人間が個別に持っている価値基準は変動するものですから、当然、世の中の価値基準も常に移り変わることになります。そうはいっても自分は何も変わってないというかも知れませんが、今この文章を読んだあなたと、読む前のあなたが同じだとはいえないはずです。
そこで運命ですが、こうした世の中の織り成す綾の上にしか、運命もまた存在しません。ということは、運命それ自体も、動かない決定を持って現れるのではなく、様々な形でやってくるといえます。こう考えると運命は何も、「都合の良い事実」を指すものではなく、「都合の悪い事件」を指すものではない。つまり、予め決められた事というのは何もないのです。
結論としては、運命は、自分の意識だけで決定できるほど自由なものではなく、また、自分と全く関係のないどこかで決定されるほど届かない存在ではない。ということが言えるのではないでしょうか。
ただ、これが事実だとすると、運命についてロマンを含めた期待感を持っているような人にとっては、夢のない話になってしまい、逆に独我論的な理念を支えとしている人には邪魔な主張ということになります。恐らく、本を読んでどちらの考え方もあるというのは、こうしたことが原因なのでしょう。
本来なら、そのどちらかである、と結論付けられればスッキリするのでしょうが、残念ながらこの2つの考え方はその何れもが、あなたもおっしゃるように「考え方次第」、つまり、希望的推測ということになります。


・・・何か自分の思い描きどおりではない事項を、渋々納得して飲み込まなければならないとき、「仕方ない、これも運命だ。」等と言ったりします。コレは何も、予め決定付けられていたことを承諾しているのではない。過去と未来に亘り、様々な可能性や形の変容があることも理解しながら、たまたま自分にとっては思い描く形とはならなかったが、別な形に他者との折り合いを見つけ、それに従うことがより善いと判断する。つまり、一歩譲ることに意義を見出し、そこに自分自身で背中を押して進み行くために、あえて決定論であると思い込ませる。そういう行為だと思います。

大人として何を見出すべきか

僕も”気がつけば”いい大人です。この”気がつけば”というのは何とも残酷ですね。つまり気がついていない時に様々な可能性は過ぎ去っていて、二度と取り戻すことはできないわけですから・・・。

いや、しかし気を取り直して、今回は、「アラフォになって、自分はこれでいいのか、人としてあるべき姿があるのに、未だにどうしていいかわからない。人は人、自分は自分という世の中に甘えていた・・・。」そういう悩みに対して僕が考えたものを紹介してみます。


「人とはどうあるべきか」このような問いに対する究極の人間像が絶対的にあるとすれば、今の世の中のこの多様性とは一体何なのでしょうか。また、絶対的な存在というものを、一体誰が「こういうものだ」と言い得る権利を持っているのでしょうか。要するに、この世の中で、「こうでなければならない」というのが既にあると思う事は間違いなのです。しかし、だからといって、無軌道、無規範な世の中というものも、人間は認める事ができません。となると、そこにあるのは、人々の間にある価値の共有なのです。個々に違う多くの価値観が、ある一つの「善い」を共有、共感したとき、それが常識とか、ルールの中味となるのです。赤裸々なことを言ってしまえば、世の中のどこに、自分のことを横に置いておいて、優先的に人を助けようとすることのみに生きる人がいるでしょうか。「人と人とは助け合って生きていて」と言いますが、助け合うこと自体が個人の本来的な目的なのではありません。しかしなぜあなたに人間同士が助け合うことが「常識」であると思わせるのか。それは上述からすれば人間がそれぞれ持つ自我を認め合わなければ生きられないからなのです。あなたが年齢を重ねる事で、昔と比べて自分の内実が見えるようになったのは、つまりは自我のほんとうに求める事について自分で意識できるようになったからです。人間の内面の成長とは、身体機能的な部分のそれとは違って、自分の中のネガティブな部分に気が付く面もあると思います。しかし、そのことは何も後退ではない。より世界観が拡張していくうちの一部だということに過ぎません。まずいと思うのは、あなたがそのネガティブな感情に気が付いたとき、それが直ちにいけないことと位置づけて、漠然と身に着けてしまった既成概念にあてはめ、ようやく気が付いた自我を閉ざしてしまうことです。あなたも指摘しているように、「人は人、自分は自分」という考え方は、人間の、特に内面の成長に対して、何も答えを用意していません。今の世の中は確かに自由主義で、どんな考え方で人生を歩む事もできます。しかし、それを笠に着て、「人は人、自分は自分」を振りかざしていては、自分の人生とは何か、世の中とは何か、なぜ自分は生きているのかといった根源的な問いに触れる事はできないでしょう。恐らくあなたの周りの人なら言いそうですが、そんなもの考える必要がないと思うならそれでもよろしい。そういう人にはそれなりの人生があるでしょう。しかし人間には本来、「それなり」で善しとはしない自我の本性があるのです。私はそこに、人生の階段を登る要素があると思っています。そういう漠然とした問いを、漠然としたまま一生を終えるのか、確信に変えて歩むのかでは、数段違うと思うのです。


・・・私たちアラフォ世代は、世の中が急速に便利になって、合理的な生活があたりまえになるのをつぶさに観察してきたと思います。ということは、考える事もできる。合理的に生活することが、人間の間にある何か重要なものをすっ飛ばしても良い。ということになるのかどうかを。

自分が大事か他人が大事か

ある人は、自分以外の人間に興味がなく、思いやりの心情に欠ける自分に疑問を持っています。どうしたら他人に関心が持てるのか・・・という質問に、僕が解答してみました。


「自分のことしか好きじゃない」このことが本当なら、まだあなたには救いどころがあると言えます。
世の中には、自分のことさえ好きになれず、それが原因となって出口の無い悩みをかかえる人も多いわけですから。かくいう私もあなたと同じで自分のことが好きな人間なのですが、これを自分なりに分析してみると、「自分を好き」と言うには2つのことに確信が必要なのです。
まず一つ目には、自分自身の内面にオリジナルで明確な展望(ロマン性)を持っていることです。これはそれが現実的であるかどうかは関係ありません。要するに、自分(だけ)が信じているほんとうや良いもの、美というものに惹きつけられているかどうかということです。
二つ目には、自分の生活する環境において、1つ目の確信を持った自分自身が受け入れられていることです。これは要するにパーソナリティを他者に認めてもらっていることです。
「自他共に認める」という言葉がありますが、私が勉強したことによると、これは、人間が生きていることそのものだということです。先ほどの「自分が好き」ということに当てはめてみると、生きることそのものは、自分が自分自身(自我)を持ち、その自我を他者と認め合うことで成り立っているということですから、「自分を好き」だということは、生きるうえで中心となる心情に他なりません。
あなたは、「他人に興味がない」「思いやりに欠ける」と自己分析しているわけですが、上述のことからすると、他人に興味を持つことも、他人を思いやることも、自分の内面に何も無いところから引き出すものではないということです。ましてや、他者や周りの風潮や要請によって持つべきものだと認識するのは本末転倒です。
つまり、自分自身を認めてもらうためには、他者との関係性が絶対に必要なのですから、興味の有無、思いやりの有無はむしろ、関係性のためのスキルではなく、結果論的なものというべきなのです。
世の中には、いろいろな人間がいて、様々な人間模様が編み出されています。今現在、あなたが他人に興味を持てない、思いやれないのは、単に関係性が少ないからです。自分自身が内面の自我と向き合って、そこに奥深い展望を確認したときに、それを認め合えるような他者を自ずと求めるでしょう。そういう人は必ず現れます。それが世の中の広さというものです。


・・・今考えてみれば、質問者が自分のことを「思いやりに欠ける」と指摘しながらも、同時に「どうすればいいのか」という思いを抱いているということは、「このような状態は善いものではない」という一つの切り口がすでに用意されているということですね。

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