難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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人生、好きなように生きるべきか

どういうことがあったのかは分かりませんが、ある人は、生きる上で出会う様々な「こうあるべき」に疑問を持ちます。そもそも、自分の人生なんだから、気の向くままでいいのではないか?何が正しくて、なにが間違いなのか?これについて、僕も考えてみました。


具体的に、ある人間がこれから執ろうとするある行動が、非道徳的であったり、非倫理的であったり、非常識的、非合理的であったりする場合、「それは間違っている」「誤りである」と指摘することは簡単だと思います。
しかし、実は、それとは逆に「それは間違っていない」「それは正しいことである」というのも、基本的にはこれと同じ原理なのです。つまり、道徳的で倫理的で、常識的、合理的だから、それは正しいのです。
ただ、誤りについてはそれが人々にとって世の中にとって不利益で、望まれる可能性を示さないので、指摘しなければならない必然が生じますが、正しい場合はそれがないため、周り人々や世の中のほうから求めて探ることを行わなければならない分、見つけにくいのです。
上述のことから解るように、「正しい」「誤り」というのは、道徳、倫理、常識、合理などの人間の価値基準に結びついているのです。ですから極端にいえば、絶対に正しく、或は絶対に誤りというものは存在しない。道徳、倫理、常識、合理は、人間が皆持っている価値基準の認め合いが生んだ「妥当」ともいえるルール体系なのです。それは人間が社会を支えあっている以上は必然的に編み出されるべき自我の共有の場だといえるのです。
結論としては、あなたがいくら「自分の好きなように生きるべき」だと断行したとしても、自我が他人との関係性を断ち切ることができないので、好きなように生きていることにはならないのです。これを越えたところは即ち非道徳、非倫理、非常識非合理の世界なのですから。これと同様の理由から、「現実を考えたり妥協しながら生きるべき」と宣言するまでもなく、あなたが生きていることそのものは、他人の価値基準(=自我)とすでに折り合って生きている姿そのものなのです。


・・・人間の世界は関係性の世界。ゆるいゴム紐で結ばれた世界で、互いに引っ張ったり押しやったりするネットが広がっている図式が思い浮かびます。あまりに個人の意識が尊重されすぎると、こうした関係性が見えない人が多くなる。「好きなように生きる」は、決してこのゴム紐を切り離すことではない、そう思います。

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