難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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俗世間は馬鹿馬鹿しいか

20代といえば、普通の人なら、人生の上で最もいろんなことがある時期であり、身体も精神も、いろいろな見聞を広める時だと思います。ある人は、その中で、同世代が熱中したり、ハマったりしている様を冷めた視線で見るにつけ、「くだらない」「馬鹿馬鹿しい」そう感じながらも、このまま他人と価値観が合わず孤立してしまうのではないかと不安に駆られます。このことについて、僕も考えてみました。


あなたの考えておられることは、まさに「ごもっとも」です。しかしこの同意や同感は、たまたま私がそうだと共感するから「ごもっとも」だと思うわけです。
私もあなたのような年齢のころは、大学の友人たちと価値観が合わず、あまりにも合わなさ過ぎるので逆に面白がられたり、自分自身もそのポジションをむしろ楽しんでいるようなところがありました。
しかしお気づきかも知れませんが、私(の過去)はあなたに共感していることで既に、まったく孤立無縁であるということはないのです。あなたの価値観が今現在、あなたの周囲の人と合わないというだけです。確かに、少数派であるかも知れませんが。
人間は、関係性の世界を生きる動物だと言われています。これは、人間が自我を持っていることに由来します。私たちは、生理的身体的欲求にのみ従属して生きているのではありません。むしろ、お腹がいっぱいであっても、充分に睡眠をとっていてもなお、自我の本性である「善い」や「ほんとう」を求めることが主体となって生きているのです。例えば「善い」を求めるのは、具体的には何が「善い」とあなたに認識させるのかと言えば、それは他者と認め合いを行うことなのです。選択肢AとBがあり、AがBよりも善いとするとき、多くの価値観がBよりもAと認め合わなければ「善い」認識は生まれ得ない。社会というのは、こうした関係性の網の目なのです。
安易なこと、低俗なことを周りがもてはやしていることに意義を見出せない、こんなことは自分にとっての「ほんとう」ではないと感じるのでしたら、安易や低俗なものが生まれる原理を考えてみましょう。安易や低俗が多くの人間の「善い」に支えられていることも確かですが、それらのことが「安易」であり、「低俗」であるという認識があるということは、そのように捉えている人間の価値基準も存在しているということです。また、「安易」や「低俗」の序列があるということは、その全く反対の世界も存在しています。あなたや私は、そうしたものにいち早く気がついて、そこへとめがけることができるのです。


・・・この人の心情、僕は良く分かります。まさに自分がそうでしたから。しかし当時は、そういうモヤモヤに、どう対応してよいか分からずに、虚無や厭世に苛まれたものです。でも本当の世界の広さとは、自分の目が届く範囲よりももっと広い。そして、自らが進み行くことができると実感したときに、あまりにも自分の一生が短いことに気がつくのです。

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