難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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言葉はどこまで届くのか

「自分を大切にできない人は他人を大切にできない」という言葉をよく聞くし、なんとなく同意するが、その真意については掴みきれない・・・といった投稿がありました。僕には、この、「重要なことだと薄々は分かっているが、本質的なことはぼやけたまま」という状態がいいことだとは思えません。そこで、僕も考えてみました。


自分はなぜ存在しているのでしょうか?ほんとうにここに、ありありと在る物体が、間違いなく自分自身であると、誰が認めるのでしょうか?他人が認めるからではないですか?そして、自分以外の誰か、あなたの友達の例えばA子さんも、A子さんがA子さんであると認めるのは、A子さんではなくて、あなたを含めた他人です。
人間というのは、こうしてお互いの存在を認め合う事で生きています。もし今、仮に、あなたが自分自身に悲観して、絶望して、自殺未遂や自傷行為に走ったとします。そのこと自体は自由だとしても、上記の事からすれば、その行為は、自分自身を大切にしていないだけでなく、あなたのことをあなた以外の何者でもないと認めている多くの周りの人の視線や思い、気遣いや折り合い、共有物や共感、かけがえの無い価値観の共有、これらのものを全て破壊し、無き物にしてしまうことになります。


・・・言葉というのは、人間と同じで、表層の印象と本質の部分があると思います。流麗なフレーズは、それだけで人間を惹きつけることができますが、多くの場合、その部分のみに流されてしまい、それはやがて真意を変質させてしまう。こうした日常に慣れてしまうことは残念なことです。本質を直観することに意識的でないと、上っ面だけを捉えた浅い人生になってしまう。ゆがみにも気がつかないのです。質問投稿者を含め、多くの人が冒頭の言葉を受取り、それをなんとなくいい言葉として通り過ぎる。しかし、そんな人々の中で、一体どれだけの人が、「なぜ自分を大切にしないといけないのか」と言った問いに答えられるでしょうか。今の世相はとかく、自分は自分、他人は他人です。多くの親がそう言いながら子どもを育てています。しかし、そのようなぶつ切りの社会を育ててしまっては、こういった問いの本質にはたどり着けないのです。

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禁じられた色彩
この二人にしか出せない色なんでしょうか。彩度の落ちた感じ。古い曲ですが、時々聴きたくなります。暮秋の今、丁度こういう感じでしょ?







笑うとはなんであるか

ある人は、他の人に比べて自分はあまり笑う事がない、何がそんなに可笑しいのかわからない。しかし、そんな表情の無い自分にも、少し嫌気を感じる・・・。そういって悩みます。こんなとき、どう考えればいいのでしょうか。


人間の自我は、絶えず他人の了解、認められを必要とします。価値基準のやり取りなしには人間は生きられないのです。自我を持つ人間の本性は、ほんとうや良いもの、美しいものへの惹きつけられであり、これらが持つ可能性に向かって日々行動することこそが人間の生なのです。
ただし、それぞれの人間が持つ価値基準はバラバラであり、そのバラバラなものの中から意見を摺り合わせて共有できることを探るのが他人との関係、周りとの関係です。そしてそれらの束が社会を形作っています。私達が常識やあたりまえとして認識していることも、こういうところから作り上げられていくのです。
あなたが周りを見渡してみて、その範囲で笑うべき場面がないというのは、自我に訴えかけるほどの価値を認めていないということですから、それはそれで認めるしかないと思います。「普段の何気ない会話でも笑いながら喋っている」という行為は、馬鹿馬鹿しく、馴れ合いにしか見えないかもしれませんが、その場に居合わせる者同士が価値基準を摺り合わせて共有できることを高め合わなければならないのなら、自分のロマン性や価値観は一旦自分の中にしまっておくとしても、対応していく、共有できる、そういう態度のほうが人間性としては一枚上手だと思うのです。
「笑う門には福来る」・・・笑うのは「門」であって、あなた自身や誰か特定の人のことではない。なかなか上手い言葉だと思います。


・・・結局このようなことも、悩んでいる人にとっては自分自身の悩みであるとしてしまいがちですが、本当は関係性の問題なのです。さらに、関係性という目に見えない話になると、直ちにそれは、決ったもの、ある形が予め固定されているものだと考えがちですが、実はそれも違う。

歳をとるのは輝きを失うことか

若年層と思われる人が、30歳以上の人に向けて、「自分が一番輝いていたのはいつでしたか?どんなものでしたか?」という質問を投稿していました。軽い気持ちで武勇伝を聴いてみたいといった感じの質問だと思います。しかし、少し冷静に考えてみると、質問が過去形になっていることに一抹の寂しさを禁じえません。そこで僕も考えてみました。


まるで30歳を越えた人間は輝くことを諦めなければならないのかと思わせる質問です。
質問者には、そんなつもりではないです、と言ってもらいたいですが・・・。
確かに30代、40代を迎えると、身体的部分は衰えます。しかし、人間というのは、身体の健全さだけが幸福や充実をもたらすのではありません。幸福や自我の充実というのは、良好な状態がもたらすものではあるのですが、幸福や自我の充実が実存するものではなくて幻想上の事象、つまり、人間が思い描くものである以上は、心理や精神の世界の話になるからです。このようなものの充実というのは、むしろこれからであると思っています。ですから、「一番輝いている」時期がやって来るのは、30を越えてからだと思う人がいても不思議ではありません。
私自身のことを言えば、趣味として創作活動をしていますが、確かに10代20代の頃は稚拙ではあってもとにかく創作意欲というのは目に見えて溢れるように湧いてきたことだったと覚えています。この意味においては、「一番輝いて」いたのかも知れません。しかし、最近はと言えば、意欲というものはかなり引っ込んだところにあって、その代わりに質にこだわっているところがあります。
しかしなぜこんなことが起きるのでしょうか。私の考えでは、何かを創り出す創造力というのは、肉体的な機能低下とはあまり関係がないような気がしています。むしろ影響が大きいのは、「世界を知らないこと」だと思います。これは、「知らない」ことが創作にとって良いのではなくて、「知らない」自分は、その分まだ見ぬ世界にさまざまな期待をするのです。また、知らないということは、どんな刺激も意味が大きくなるのです。若いときの創造力というのは、こうしたものに支えられています。対して、今の創造力は、身に付いた技巧や知識に支えられています。しかし、「知っている」だけに、満足感もなかなか得られないのです。
あなたの質問に私が答えるとすれば、「一番輝いている年齢」など、自分自身では答えを出したくない、というのが本音です。歳をとるにつれて、知らず知らずのうちに失っていくものもあれば、敢えて自ら切り捨てるものもあるでしょう。しかし一方では、沢山のことを知っていきたいですし、世界を全て知り尽くすことなど出来ないというのは事実ではあるのですが、若かりし頃と同じように、だからこそ世界を知り得る意欲に支えられるのだと思うのです。これは、人間の自我の本性ではないでしょうか。


・・・自我の交差する世界、関係する世界の中では、当然、より善いもの、よりスマートな洗練、こういう価値の序列が出来上がります。しかしそれとて一義的に固定されているものではない。年齢によって、価値観の向かい先が異なるからです。より多くの知があるなら、見渡す範囲も広くなる。明らかに、20歳台のころとは、立っている階段の位置が違うわけです。そのスッテップの一つ一つで、別な色に輝けばいいのだと思います。

世界で一番弱い人間は誰か

なぜ親は自分を産んだのか?生きる苦しみなんて味わいたくなかった・・・。こんな投稿がありました。でもこの人の投稿を見ていると、楽になりたいとも書かれています。他の回答者は、「親の様々な選択枝のある中で、今のあなたがあるのだから、こんな投稿しないで親と対話しろ」と言っていますが、そもそも、このような課題は、自分自身が考えて、克服しなければ意味がないと思いますし、脆弱な思考に至るのは、ある意味では親の代から始まっているとも言えるので、そこは解決を導く答えではないと思います。そこで、僕も考えてみました。


「生まれないでいればずっと「無」でいられて楽だったろうに…」無が楽とか苦を認識するなんて聞いたことがありません。つまりあなたは、ネガティブな思考で頭が一杯でありながら、「楽」ということも「苦」ということも知っているわけです。
確かに産んだから感謝しろとか、愛があったからとか、そういう言葉では、あなた自身の人生があなたのものだという基本的な部分さえ伝えるものにはなっていませんが、だからといって人生を牢獄と位置づけるなら、人生がバラ色だと感じている人は何なのでしょうか?
産まれる前の物体に要請されて産む親はいません。つまり、ひとたび生まれてしまえば、根源的にはあなたは独立した一個の人間ですし、世の中を牢獄と思おうが、死ぬのが怖いと感じようが、自由にしていいわけです。むろん、親に感謝するもしないも自由です。ただ、あなたがそうやってネガティブな思考を(批判覚悟してでも)御礼のチップ付きで公に投稿する原理的な動機はなんなのでしょう。私には、あなたが正反対のことを欲しているからだと思いますが。生きている限りは、そうなる可能性があります。


・・・本当の絶望を経験しているわけでもないのに、自分自身で創り上げた絶望で周りを固めてしまっていることほど馬鹿馬鹿しい行為もないでしょう。ちょっところんだだけですぐに救急車を呼ぶような、そんな精神性では、自分の弱さを見つめることさえできないのです。

ヒューマンサウンド
僕らの世代には、「最先端の音楽」と言うものがありました。エレクトロニクスの進化とともに、新しい音というものが、単に新曲ができたという価値に付随して、或いはそれを超えて、聴く者を「すごい!」と言わしめていたのです。しかし進化というのは、必ずしも過去を取りこぼすことなく積み上げることではない。忘れ去られる事と裏表なのです。デジタル技術の普及は、確かに何でも可能にしたかもしれない。でも、労せずに創り出し、労せずに聴けるのなら、そこにあるものは一体何なのだろう?
これは、そんな時代になる直前の、僕が個人的にはポップスが「健全」であったと思う時代の音です。充分に歌っているし、丁寧に、遺憾なく打ち込まれているし、今でも瑞々しさは変わっていない。まさに人道的。

この国の空気は何色なのか

K.Y.(ケーワイ)という言葉が出来ました。空気。目に見えないが、確かにそこにあるもの。人間は、こうしたものにも敏感です。ある人は、海外でフリーの仕事をしていますが、日本に帰ってきて、その視点で接すると、随分と日本に住む知り合いは視野が狭く、疎外感さえ感じるといいます。これについて、考えてみました。


あなたの立場から見れば、日本人で普通に生活している人は、その殆どが視野の狭い人間に見えるのではないでしょうか。
特に、人生観や、生きる姿勢といったような話題に共感を求めるような場面では、そのような事は顕著になると思います。
人間は、自我を持っています。この自我は、他者との認められ合いを求めることにより成り立っていますから、自我を持っていることはすなわち他者との関係性を抜きには考えられません。
個々の自我というのは、自分と中心とすると、日常の生活圏、次に移動が可能ではあるけれども知り得るというだけで憶測を含むような範囲、そして、決して目にはできないけれどもその外側にあると思われる何か、という3段階の認識に分けられるといいます。自我の前に現れる像というものは、実際に目に見える10円玉の認識の仕方を見ても解るとおり、一度には表面しか見ることはできないにもかかわらず、それが10円玉であるという確信が生まれるのは、見ている人自身の経験や憶測の部分の確信が下支えとなっているのです。これは、自分の周りのどんなモノに対する認識の仕方も同じです。
自我の持つ他者との関連性で言えば、あなたが共感してほしいと思っている日本人は、その人から見れば、通常、2段階目に生活圏を置いているあなたのことを、自身の経験や知識から憶測せざるを得ない部分が多くなるのです。そうであれば、これは、ベタな表現でいうと、身にしみた共有感というものは生まれがたい状況であるということになってしまうのです。要するに、細かい人間の心の動きまでを感じるようになるには、同じ空気を吸っている必要があるのです。
何年か前に、バルセロナを旅行したことがあります。事前にガイドブック等で予備的には勉強しましたが、いざ現地に着いてみると、思っていたよりも何も解らないなあ、というのが正直な気持ちでした。ですから、とりあえず日本人の観光インフォメーションセンターに頼って、歩き方だけでも聞いてみようとしたのですが、そこにいらっしゃった日本人の女性は、当地の事情に詳しいことはありありと伝わってくるものの、どういう聴き方をしても当方のほんとうに知りたい「気持ち」のようなものが伝わらず、お金を出して情報を得ることは出来ても、気持ちの部分を汲んでもらうのは難しいんだな、という経験をしました。
要は、今考えればこのやりとりも上述の象徴的な例で、気持ち、自我の共有感がないために、良好な関係性が持てなかったのだと思います。
あなたについて言えば、「外へ出ない日本人に、何を言っても解ってもらえない」と思うことは、上述のことを考えれば、必然的であり、誰にでも解ることなのです。そうである以上は、こうしたことの認識の上にたって、それでもお互いの気持ちを汲みあうにはどうすればよいかを考えることになりそうですね。


・・・共感や共有は、関係性社会を生きる人間にとっては、やはり欠くことが出来ないものです。僕らの世代でも、個性個性と言われて、すっかり学んでこなかった、目が向いていなかった部分がある。そう思います。

勘違いでも好きなものは好き
僕は「劇伴」というか、ラウンジミュージックというものが大層好きです。ドラマにドラマ性をもたらすには、当然ドラマチックな音。それを音楽単体として取り出せば、感情に訴えかけることに特化した、カユミに効くサウンドとなる。ヨーロッパからブラジルを見れば、それはもうブラジルではないのだけれども、ある面では洗練され、ある面では勘違いを起こし、結果として極上の混血作品が出来上がる。




答えは一つか(他人は信用足り得るのか3)

この類のテーマも3つ目です。そろそろクドいか。しかし、関係性の悩みは尽きません。人間にとって、一番大事なことだからです。ある人は、大事な人を信用したいと努力しているのに、でも、信じられなくて胸が苦しくなる。もしかすると自分は矛盾したことを言っているのではないか、そう言って悩みます。


どんな事でも、「こうでなければならない」とか、「こうしなければならない」というような思い込みがある人が多いことに驚かされます。
「人を信じることができない」とあなたはおっしゃいますが、では、自分のことは完全に信じることができているのでしょうか。そもそも、信じるとは何でしょうか。それさえしていれば、何でも収まる話なんでしょうか。
私の感覚から言えば、例えば伴侶でさえ、本質的に信用などできません。他人なのですから。しかし、それだから即ち、信頼関係が成り立っていないかというと、そうではないのです。つまり、伴侶の心の奥底まで見通すことなど出来ないのですから、平たく言えばそれは何を考えているのか解らないということになります。しかし、それでは家族が成り立ちませんから、誤解を恐れずに言うと、家族関係、同伴関係において、必要不可欠な部分となるものを育成している。ということになるのだと思います。
他人同士は、常に0点か100点かのどちらかということは不可能なのです。ただ、他人同士が一つのことに向かっている時、同じベクトルを持っている時、バラバラである自我が共有する面積を広げていく、信頼を拾い集めて共有するのだと考える事はできないでしょうか。
自分ばかりが相手を信じたり、疑ったりするわけではない
のです。相手も同じことをしています。また、それが相互に行われない関係というのは、本当の関係ではないのです。


・・・それが人間だと言ってしまっては、身も蓋もないのですが・・・。スイッチをONOFFするように、信用できるできないが決ってしまうのなら、ルールや社会は成り立ちません。多くの折り合いが必要になる身近な人にこそ、自分の持っている「幅」が必要なのでしょう。

ピアニストになれない人は音楽を語れないか

将来、ピアニストになるために頑張っておられる方は沢山います。激しい競争、狭き門のこの世界で、自分には才能がないと悩んでいる人もいます。僕にも才能はありません。しかし、偉そうなことを言う事はできます。


そんな環境で練習されているのですから、相当高いレベルなのでしょう。
しかし、あなたのその「諦めた方が良いのでしょぅか」という質問は、すでにもう「諦めずにがんばりなさい」という回答が聞きたいと言っているようなものです。ピアノの先生でない限り、あなたに対して正確なアドバイスなどできないのですから。
かく言う私はピアノの先生でも音楽関係者でもなく、ただの音楽好きです。そんな私から言えることは少ないし、あなたにとっては余計なお節介でしかないかも知れませんが、読んで気分転換したっていいじゃないですか。
楽器の演奏は、身体の鍛錬、訓練であるだけでなく、その先にまだ芸術性を高めるという特殊なものを要請します。特にピアノは、人間の音への憧れが形になった楽器と言えますし、音の魅了性は人類滅亡まで永遠ではないかと思えるほどです。それを自在に演奏できるのが、あなたやピアノ科の友達なわけですが、全く羨ましい限りです。
ところで、人間にとって音楽とは、人間それぞれに価値基準が存在するのと同じぐらいの数だけ、様々な係わり方があり、聞き方があり、解釈があります。つまりそれだけ人間にとって身近だということですが、同時にこれは、聴く者があって初めて成り立つものだと言う事になります。演奏する者だけでは「音楽」ではない。つまり、このことは、人間の自我(価値基準)が他者との了解のし合いによって成り立っている図式とぴったり一致するのです。
本当に良いもの、美しいもの(=音楽)を求める事が、人の自我が成せることなのであれば、自我が織り成すことで成り立つこの世の中はまさに、音楽の広さ、奥深さを人の数だけ拡げていると言えます。
あなたはピアニストになる夢を持っていますが、失礼ながら音楽世界の広がりから見れば、それは豆粒ほどの小さなものです。もちろん、世界的なピアニストになればその豆粒は一気に大樹となるのですが、その可能性もあれば、そうでなければ全くの無ということではない。なぜなら音楽世界には無数の豆粒が存在し、その大きい小さいは全てが異なっているからです。また、その小さな豆粒は、場合によっては無限大に音楽を楽しんでいるのです。


・・・先日、ピグで、息子をピアニストに仕立てたいお母さんが、最近息子と意見が擦れ違うようになって楽しくなくなったと悩んでおられました。「ピアノや音楽はあんなに好きなのになぜ・・・」お母さんはピアノを練習して欲しい、しかし思うとおりに練習しない・・・僕にはこの息子さんの思いが良くわかります。要するに、音楽が自分のモノになり始めたのです。回答文にあるように、自我の数だけ異なる音楽世界があるなら、たとえ親であっても、独自に育ち始めたその世界を、「こうでなければならない」などと結論づけることなどできないのです。

テーブルの上の肉はどう食べるべきか

かのソクラテスは、「食べるために生きるのではなく、生きるために食べるべきだ。」と言ったそうです。ある人は、この一見似ている2つの行為は、それぞれどういう意味なのかと問うていました。

これについて、かなり自分勝手な解釈ですが、僕も考えてみました。


この場合「食べる」というのは人間が持つ「欲」とか、もっと分かりやすく言えば「目先の快楽」のことを指すのだと思います。
対して、「生きるべき」の「生きる」というのは、人間が生きる事そのもの、根源的な「生」、目指すべき可能性のことを指しているのです。
従って、人間の根源的な生を、欲望のみに従属させることは愚かな行為である。目先の快楽や、欲求への安易な迎合に生を捧げるのではなく、人間の生にはもっと向かうべき地平がある。それを直観し、その目的のために日々の自分を満たしなさい。こういう言葉になると思うのです。


・・・単にお腹が良くなればいいのなら、力強いライオンのように肉を狩り、可愛い牛や豚のように草を食めばいいはずです。でも人間は、そう簡単にはいかない。自然界から授かるものをあくまで素材とし、様々な趣向を凝らし調理をする。美しく装飾された食器を愛で、テーブルマナーに従って、他者と時間を共有します。食べることだけでもこのように営みの拡がりがある。つまり、これが人間の世界の広さでしょう。ソクラテスの言葉は、この広い世界を、より善く生きるための最も根源的な指摘なのだと思います。

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