難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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ピアニストになれない人は音楽を語れないか

将来、ピアニストになるために頑張っておられる方は沢山います。激しい競争、狭き門のこの世界で、自分には才能がないと悩んでいる人もいます。僕にも才能はありません。しかし、偉そうなことを言う事はできます。


そんな環境で練習されているのですから、相当高いレベルなのでしょう。
しかし、あなたのその「諦めた方が良いのでしょぅか」という質問は、すでにもう「諦めずにがんばりなさい」という回答が聞きたいと言っているようなものです。ピアノの先生でない限り、あなたに対して正確なアドバイスなどできないのですから。
かく言う私はピアノの先生でも音楽関係者でもなく、ただの音楽好きです。そんな私から言えることは少ないし、あなたにとっては余計なお節介でしかないかも知れませんが、読んで気分転換したっていいじゃないですか。
楽器の演奏は、身体の鍛錬、訓練であるだけでなく、その先にまだ芸術性を高めるという特殊なものを要請します。特にピアノは、人間の音への憧れが形になった楽器と言えますし、音の魅了性は人類滅亡まで永遠ではないかと思えるほどです。それを自在に演奏できるのが、あなたやピアノ科の友達なわけですが、全く羨ましい限りです。
ところで、人間にとって音楽とは、人間それぞれに価値基準が存在するのと同じぐらいの数だけ、様々な係わり方があり、聞き方があり、解釈があります。つまりそれだけ人間にとって身近だということですが、同時にこれは、聴く者があって初めて成り立つものだと言う事になります。演奏する者だけでは「音楽」ではない。つまり、このことは、人間の自我(価値基準)が他者との了解のし合いによって成り立っている図式とぴったり一致するのです。
本当に良いもの、美しいもの(=音楽)を求める事が、人の自我が成せることなのであれば、自我が織り成すことで成り立つこの世の中はまさに、音楽の広さ、奥深さを人の数だけ拡げていると言えます。
あなたはピアニストになる夢を持っていますが、失礼ながら音楽世界の広がりから見れば、それは豆粒ほどの小さなものです。もちろん、世界的なピアニストになればその豆粒は一気に大樹となるのですが、その可能性もあれば、そうでなければ全くの無ということではない。なぜなら音楽世界には無数の豆粒が存在し、その大きい小さいは全てが異なっているからです。また、その小さな豆粒は、場合によっては無限大に音楽を楽しんでいるのです。


・・・先日、ピグで、息子をピアニストに仕立てたいお母さんが、最近息子と意見が擦れ違うようになって楽しくなくなったと悩んでおられました。「ピアノや音楽はあんなに好きなのになぜ・・・」お母さんはピアノを練習して欲しい、しかし思うとおりに練習しない・・・僕にはこの息子さんの思いが良くわかります。要するに、音楽が自分のモノになり始めたのです。回答文にあるように、自我の数だけ異なる音楽世界があるなら、たとえ親であっても、独自に育ち始めたその世界を、「こうでなければならない」などと結論づけることなどできないのです。

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