難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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この国の空気は何色なのか

K.Y.(ケーワイ)という言葉が出来ました。空気。目に見えないが、確かにそこにあるもの。人間は、こうしたものにも敏感です。ある人は、海外でフリーの仕事をしていますが、日本に帰ってきて、その視点で接すると、随分と日本に住む知り合いは視野が狭く、疎外感さえ感じるといいます。これについて、考えてみました。


あなたの立場から見れば、日本人で普通に生活している人は、その殆どが視野の狭い人間に見えるのではないでしょうか。
特に、人生観や、生きる姿勢といったような話題に共感を求めるような場面では、そのような事は顕著になると思います。
人間は、自我を持っています。この自我は、他者との認められ合いを求めることにより成り立っていますから、自我を持っていることはすなわち他者との関係性を抜きには考えられません。
個々の自我というのは、自分と中心とすると、日常の生活圏、次に移動が可能ではあるけれども知り得るというだけで憶測を含むような範囲、そして、決して目にはできないけれどもその外側にあると思われる何か、という3段階の認識に分けられるといいます。自我の前に現れる像というものは、実際に目に見える10円玉の認識の仕方を見ても解るとおり、一度には表面しか見ることはできないにもかかわらず、それが10円玉であるという確信が生まれるのは、見ている人自身の経験や憶測の部分の確信が下支えとなっているのです。これは、自分の周りのどんなモノに対する認識の仕方も同じです。
自我の持つ他者との関連性で言えば、あなたが共感してほしいと思っている日本人は、その人から見れば、通常、2段階目に生活圏を置いているあなたのことを、自身の経験や知識から憶測せざるを得ない部分が多くなるのです。そうであれば、これは、ベタな表現でいうと、身にしみた共有感というものは生まれがたい状況であるということになってしまうのです。要するに、細かい人間の心の動きまでを感じるようになるには、同じ空気を吸っている必要があるのです。
何年か前に、バルセロナを旅行したことがあります。事前にガイドブック等で予備的には勉強しましたが、いざ現地に着いてみると、思っていたよりも何も解らないなあ、というのが正直な気持ちでした。ですから、とりあえず日本人の観光インフォメーションセンターに頼って、歩き方だけでも聞いてみようとしたのですが、そこにいらっしゃった日本人の女性は、当地の事情に詳しいことはありありと伝わってくるものの、どういう聴き方をしても当方のほんとうに知りたい「気持ち」のようなものが伝わらず、お金を出して情報を得ることは出来ても、気持ちの部分を汲んでもらうのは難しいんだな、という経験をしました。
要は、今考えればこのやりとりも上述の象徴的な例で、気持ち、自我の共有感がないために、良好な関係性が持てなかったのだと思います。
あなたについて言えば、「外へ出ない日本人に、何を言っても解ってもらえない」と思うことは、上述のことを考えれば、必然的であり、誰にでも解ることなのです。そうである以上は、こうしたことの認識の上にたって、それでもお互いの気持ちを汲みあうにはどうすればよいかを考えることになりそうですね。


・・・共感や共有は、関係性社会を生きる人間にとっては、やはり欠くことが出来ないものです。僕らの世代でも、個性個性と言われて、すっかり学んでこなかった、目が向いていなかった部分がある。そう思います。

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