難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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華々しさはどこからやって来るのか

人生はきらびやかなものでなければならない。ピアノコンクールで入賞する、美女コンテストで入賞する、大手企業に採用される・・・。これが叶わない自分なら、生きていても意味が無い。自分なんて好きになれない。友達はなんでもポジティヴで、自分のことが大好きだと言う。でもそんなのナルシストだ。こういうことを言って、過去には自傷行為もあったという人がいました。


友達にできていることが、あなたにはできない。しかし、その友達から見れば、友達ができないことを、あなたは日々成し遂げています。
結果が全てだと思っているでしょう。しかし、いろいろな物事の結果を出すまでには、様々な過程が含まれています。私のような凡人から見れば、少なくともあなたはピアノのコンクールに出るために、ピアノを練習し、入賞できるかどうかというレベルまでピアノの演奏技術を習得したことになります。また、美女コンテストに出るには、自分自身がある程度自分の容姿を評価してないと、応募する動機を持たないはずです。
私は凡人ですが、あなたの友人と同じように自分が好きです。ただ、自分が好きだからといって、それが即ちナルシストであるとはいいたくありません。なぜ自分が好きかというと、上述した過程とういもの、つまり、自分が興味を持ったことがらや嗜好について、そこに他人には見出せない世界の広さや、奥深さを体感できるという自由をイメージできるからであり、このことは、何もピアノを弾く技術がある、容姿に恵まれている、あるいは経済的に豊かである、等等の条件や、増してや他人の評価には左右されないものです。あなたの友人も、言葉にはしないまでも、そういう実感を持っているから自分が好きだといえるんでしょう。
私もピアノを弾きます。先生についたこともなければ、教室に通ったこともありません。大人になってから始めました。人前で演奏する機会もなく、聴かすつもりもありません。何のためにと問いたくなるような状態ですが、一生ピアノから離れるつもりはないのです。何故か?それは、何より音楽が好きだし、ピアノそれ自体が好きだからというほかありません。自分にピアノの演奏ができると信じているし、たどたどしくはあっても、憧れの楽曲が自分の演奏によって再現されることが嬉しくて、耳や指先に心地良い時間をもたらすからです。ピアノひとつとっても、自分が一生を捧げても全ての楽曲を演奏することはできないほどに、世界は広いのです。失礼ながら、コンクールで結果が出なかったことに比べれば、音楽の世界は広く、深いものです。その世界からみれば、あなたが自分を嫌いになる原因さえ、立ち消えてしまうほどだと思います。
少しでも、生きている自分が、この広い世界に成し得る何かに向かって歩きましょうよ。人生は短いですよ。


・・・気持ちは良く解りますけどね。つぶさな味わいが、人生を濃密なものにするという実感がないと、有か無かの2元論でしか自分を評価できない。自分のことを好きになる契機が一か八かでは、世界の拡がりも深みもその目に焼き付けることはできないでしょう。


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今年の9月末頃になってから、思いついたように始めたブログですが、なにぶんにも偏った独りよがりの稚拙な文章であり、不快な思いをされた方もあるかも知れません。弁明になりますが、当方、ここでは万人受けは望みませんし、初めからその意図をあえて外しながら綴っておりますので、それでもご覧頂いた皆さんには大変感謝しております。また、一部の方からは温かいお言葉やプレゼントもいただき、何ものにも換え難い喜びをかみしめております。この場をお借りして、御礼申しあげます。

本当は、もっと気楽な紙面(古い表現だ・・・)にしたいと思っていますが、それは今後の課題とします。自分の成長がそれを可能にすると思います。

本年も残すところ数日となりました。(更新できるかどうかわからないので)ブログやピグでお出会いした全ての皆さんに感謝を申しあげるとともに、良いお年を迎えられますよう祈念申しあげます。また、今後とも変わらぬご愛顧賜りますよう、重ねてお願い申しあげます。


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階段を登らない選択はあるのか

ある20代の女性が、今自分は家族や友人に囲まれて幸せをかみ締めている。しかし一方では、言葉にできない不安や虚無感も否定できない、と言っています。このことについて考えてみます。


哲学的に考えれば、不幸というのは、自分の欲望に対してそれを実現させるための手段や能力を持たないことらしいです。
あなたは幸せをイメージして、家族や友人の健康と良好な関係を描き、現在そのような環境にありながら、つまり実現させているにもかかわらず、密かに虚無感を持っている。
あなた自身がすでに自覚しているように、あなたのほんとう、幸せ、欲望というのは、今現在の立場を逸脱したいということではないにしても、一部分ではもっと先、遠方を見越しているような視点を持っているといえます。
確かに、家族や友人、好きな人というのは密接な関係は持っていても、他者であり、外的な存在です。また、いつまでもこの関係性を維持しようと思っても、外部である以上、いずれ何らかの変化がある。つまり、永遠に保障された環境ではないということです。こうした個別の自我の進み行きが、あくまでも自分だけのものであり、生きるという事は勇気の要る事だと自覚される時、孤独感がやって来ますが、これは同時に自分が生きること、自分の求めるほんとうを持たざるを得ない存在であると確信する時でもあります。漠然とではあるが、あなたはそれを察知し、先を見越すのです。
さて、あなたのこの虚無感をどうして埋めましょうか。私なら、自分の中の世界に対する謎、漠然とした心情が確信に変わるような本を読みますね。実際、随分と救われています。


・・・目の前に人生の階段があるとイメージして、この先どうするのかと問われたとき、どんどん降りていくのだと確信する人はいないはずです。また、どこかにこれ以上登れない天辺があるとしてしまう事も、考えたくはないでしょう。

放たれた鳥はどこへ向かうか

ある30代の女性は、自分は「才色兼備」を目指したい、と言います。そこで、どのように努力すればそれに近づくことが出来るのか、アドバイスしてほしいと質問しています。折角の前向きな姿勢に冷水を浴びせることは気が引けますが、やっぱり引っかかることがある。


私なら、今あなたがやろうとしていることには賛成できませんね。
というのは、「才色兼備」というのは、あくまでも他人から見た評価であって、他人がもつイメージや、幻想といったようなものです。こういったものを目標とするのは、本末転倒というか、例えていうなら本来、さまざまな可能性をもち、自由に羽ばたいていけるはずの野生の雛が、鳥かごへ入れられて一生をその中で暮らす、或は自ら鳥かごへ飛び込んでしまうようなものです。
本来、他人がもつイメージや、幻想では、個人の将来をこういうものだと縛り付けて、一元的に固定観念化することはできないのです。あまりにも妥当を尊重しすぎて、個々の持つ自由や選択肢が狭められているのは、寂しいことだといわざるを得ません。「才色兼備」は、それ自体が悪いことではないにしても、あくまでも結果に対する固定化された見方なのであって、それに近づこうと努力することは、結局は、無難な道、規定路線を歩むことと変わらないのです。
人間は、どこまで行けば、それでいいということはありません。また、どこへ向かうべきと定められてもいないのです。30代であれば、そのようなことを考え始めてもおかしくない時期です。一生を、既成概念や規定路線の周りを散歩して終えるか、世の中の原理が見えるところまで冒険するのか、その違いは大きいと思うのです。


・・・理想を描くことは答えを見つけ出すこととは少し違います。デジタル化された合理性が、自由の本質をどんどんスポイルしていく。ハイジはゼーゼマン家の令嬢が飼っている小鳥を逃がしてやりますが、逃がしたはずの小鳥が元の鳥かごへ戻っているのを目の当たりにして愕然とします。自由は、求める者にとっては不自由に映り、満たされている者にはその認識さえ起こらない。でもこれとて、分かりきっていながら踏み出さず、無難であることから外れない姿勢よりは、よほど本質に近づく可能性があると思います。

謙虚に振舞うのは損なことか

ある若者が、大きな病気をしました。しかし、見事に打ち勝って、今、生きる希望に燃えていると言います。そんな人でも、引っかかっている事がある。「自分は今まで、世の中に遠慮して生きてきたのではないか?人に迷惑さえかけなければ、どう振舞ったっていいのでは?人目を気にするこんな自分や、お仕着せの美徳、こんなものは打破したい。昔の武士のように、我が人生悔いなしと言うことができるためには、謙虚さなど邪魔なものだ・・・この考え方でいいのでしょうか?」若者らしい勇ましさです。このことについて考えてみました。


しかし、「わが人生に悔いなし」と言っているその武士はまた、「武士は食わねど高楊枝」などと言ったりもします。つまりこれは、謙虚さが自らの人間性を大きくする事実も現しているのではないでしょうか。
あなたは、大病を克服され、生きる希望に燃えている。このことは、何にも替え難い喜びです。「自分に正直に生きる」これも結構なことです。そのモチベーションを羨ましくさえ思います。
しかし、我慢や忍耐、或は謙虚さが、自分に正直に生きることへの足枷になるという考え方は、どうなんでしょうか。もう一つ気になるのは、「人に迷惑さえかけなければ・・・」という考え方なのですが、現実にはこの考え方自体が人格形成に悪影響を及ぼすものだという認識はあるでしょうか?子どもを教育する立場である親世代のエゴや短絡が優先するあまり、このことを拡大解釈して、人間一人が生きていくことそのものは、他者に何らかの「関係性」を持ち続けること(=迷惑)という実感から子どもを遠ざけてしまっています。結果、他人との距離感がつかめない20代、30代の人間が、社会問題を引き起こしています。
このことから言えば、我慢や忍耐もまた、他者との関係性において必要なスキルであると言えます。それはなにも、自分が身を引くということだけを指すのではありません。他人が忍耐や我慢を強いられている場面だってある。このことを理解しなければなりません。こうしたことが相互に行われる、つまり、自我同士の了解のし合いこそが世の中なのであり、他者との関係性こそが、自分の生きていることそのものだと言えるのです。
したがって、「謙虚さ」は自己主張を取り下げる代償として美化されるようなものではありません。ましてや、「打破」などということも「謙虚さ」には沿わないものです。自我が本質的に、ほんとう、よいもの、美しいものへ向かう意識であり、自我同士の織り成すものが社会であるなら、謙虚さは他人や自分を了解するための必須の道具と言えるでしょう。
あなたのいう「運」や「ツイテイる」、そして「幸せ」さえも、自分だけで成すのでは決してない、あなたの求めるほんとうや、良いもの、美しいものの観念は、他者がいるからこそ、あなたにそれを認識させるのです。


・・・生きるパワーに満ち溢れるというのは羨ましいことですね。しかしコントロールも必要だなあ。間違って欲しくないこともある。センスですよね。

変わらないもの、受け継ぐもの
冬がやってきました。なんとなく慌しさを感じる師走の休日に、一息入れてみましょう。

大昔の大作曲家と、現代を生きる我々。たとえ言葉が通じたとしても、あまりの世界の違いに、一言も気持が相通じる事はないのではないか。

だけど、積もり積もったちりや埃、利害や雑念を払いのけて、そういうものを超えて、今も未来も変わることの無い「美」や「快」に惹きつけられる人間の自我。脈々と受け継いでいることを、アマデウス先生にもお伝えしたいものです。




干渉のない世界が自由なのか

人と人同士は、なぜお互い競い合って、優越感に浸ったり、他人を貶したりするのか、なぜ、人は人、自分は自分とならないのか、人の幸福まで、或は不幸まで干渉しなくてもいいのではないか・・・こう考えるあまり、他人と接するのが怖くなったと悩む人がいました。とても重要なことです。そこで考えてみました。


重要なポイントに気が付かれましたね。「自分の価値観を押し付けあって他人を判断」することも、あなたが「温室育ちだから苦労知らず」であることも、全く人間の世界の本質的な部分を指摘していると思います。ただ、これは人間の持つ他者との関係性について、あなたの身の回りで起きていることを、あなた自身が解釈して起きたわけですが、それがあなたにとってマイナスの出来事とともにやって来たために、その関係性の事実があなた自身にネガティブなものとして認識させる結果となったのです。要するに、人間の関係性とは厄介であり、避けたいものだと。

しかし、関係性それ自体は、あなたの周りではたまたまそれが良いものではなかったにせよ、人間の世界からそれを取り去ってしまうことはできないのです。いくらあなたが本心を曝け出して関係のない人の幸福については感知しないと主張したとしても、すでに人間の幸福というものの認識自体が、他者との関係性の上に成り立っているばかりか、そのあなたのピュアな心情を理解する他者が存在しなければ、あなたの主張自体が無意味なものになってしまうのです。

人間は、本来が、自我の持つ惹きつけられによって生きているのです。これは肉体を主体にした生理的な欲求のことではありません。人間にとって、より大きくかつ重要なものは、他者に自分が認められたいという欲求です。関係性が心地よいものになるように、あらゆる行動を行うのです。何が良いもので、何がほんとうで、何が美しいのか。生きている人間は全てこのことを求めて日々を生きるのです。そのことが価値基準を作り出すのですが、全くこれは自分独りでは成し得る意味を持たないのです。

他人との関係性や社会は、こうした個々の持つ価値基準の摺り合わせによって出来ています。重要なポイントを掴んだのですから、今少し考えてみてください。あなたが「温室育ち」だから「苦労知らず」なのではなく、「温室育ち」だから関係性が腑に落ちなかっただけだということがわかるはずです。また、そのことが「人間の汚い部分」だけを指すものではないこともわかるのです。


・・・やはり重要なのは関係性について納得する、腑に落ちることなのです。子どもの頃から、つまり、自我が芽生えて成長するその過程で、喧嘩しないように遠ざけられ、迷惑をかけないように引き離され、他人は他人と言われ続けていては、何が大切なのかを知らずに大人になるようなものです。

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