難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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放たれた鳥はどこへ向かうか

ある30代の女性は、自分は「才色兼備」を目指したい、と言います。そこで、どのように努力すればそれに近づくことが出来るのか、アドバイスしてほしいと質問しています。折角の前向きな姿勢に冷水を浴びせることは気が引けますが、やっぱり引っかかることがある。


私なら、今あなたがやろうとしていることには賛成できませんね。
というのは、「才色兼備」というのは、あくまでも他人から見た評価であって、他人がもつイメージや、幻想といったようなものです。こういったものを目標とするのは、本末転倒というか、例えていうなら本来、さまざまな可能性をもち、自由に羽ばたいていけるはずの野生の雛が、鳥かごへ入れられて一生をその中で暮らす、或は自ら鳥かごへ飛び込んでしまうようなものです。
本来、他人がもつイメージや、幻想では、個人の将来をこういうものだと縛り付けて、一元的に固定観念化することはできないのです。あまりにも妥当を尊重しすぎて、個々の持つ自由や選択肢が狭められているのは、寂しいことだといわざるを得ません。「才色兼備」は、それ自体が悪いことではないにしても、あくまでも結果に対する固定化された見方なのであって、それに近づこうと努力することは、結局は、無難な道、規定路線を歩むことと変わらないのです。
人間は、どこまで行けば、それでいいということはありません。また、どこへ向かうべきと定められてもいないのです。30代であれば、そのようなことを考え始めてもおかしくない時期です。一生を、既成概念や規定路線の周りを散歩して終えるか、世の中の原理が見えるところまで冒険するのか、その違いは大きいと思うのです。


・・・理想を描くことは答えを見つけ出すこととは少し違います。デジタル化された合理性が、自由の本質をどんどんスポイルしていく。ハイジはゼーゼマン家の令嬢が飼っている小鳥を逃がしてやりますが、逃がしたはずの小鳥が元の鳥かごへ戻っているのを目の当たりにして愕然とします。自由は、求める者にとっては不自由に映り、満たされている者にはその認識さえ起こらない。でもこれとて、分かりきっていながら踏み出さず、無難であることから外れない姿勢よりは、よほど本質に近づく可能性があると思います。

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