難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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差し延べた手を誰が掴むのか

自分には勿体無いような、よくできた夫と結婚したが、ある時から受け入れられなくなり、孤独を感じるようになった。あまりに寂しくて、誰にも甘えられなくなって悩んでいる。こういう人がいました。夫は自分を全て認め受け入れてくれて、人間として尊敬している。しかし一方では孤独だ。これは一体どういうことなんでしょう。


幸せな結婚をつかみながら、孤独を感じる。一見、矛盾した、あり得ないような状況に見えるものの、案外問題はシンプルなんじゃないでしょうか。
あなたの質問文から憶測するしかないのですが、あなたのご主人への尊敬や感謝といった感情には、多分に形式的なニュアンスが見受けられます。それは、あなたのご主人が「器が広く」、「もったいない」人間だということを否定するものではありません。むしろ逆で、「幼少期から波乱万丈」であったあなたを妻とし、「親友として、同士として、愛し、尊敬」し得る関係だと認めるためには、本質的にこれが相互に行われあうものであるべきで、これを真に実践しているのは、実はあなたではなくて、あなたのご主人なのではないでしょうか。あなたの質問ですから、あなた自身のことを控えめに表現することはやむを得ないにしても、このように夫が寛大で能動的であればあるほど、あなたが超えるべきハードルは高くなるのです。
今あなたがするべきことは、ご主人へ謝辞を述べることでも、今以上の尊敬の念を抱くことでもありません。ましてや、ご主人以外の誰かに甘やかせてもらうことでもありません。それこそ、孤独なあなたの心を樹海の中に放り込んでしまうようなものです。
必ずしも、ご主人に近づこうと努力しなくても良いと思います。あなたは自分自身、何に興味があり、どのようなロマンを描いているのか、それを、洗いざらい、ご主人に話してみてはどうですか。もし私の憶測が正しければ、それが突拍子も無いものであっても、あなたのご主人はそれを認め、むしろ喜びを見出すに違いない。そうなれば、お互いに消費するだけの生き方ではなくなると思います。


・・・確かに夫婦と言えども他人ですから、お互いの奥底までを見渡すことはできません。しかし、より深い関係やそれを築くプロセスというのは、言葉で捉えられている一般的なそれよりもずっと赤裸々で、格好の悪いものです。相手のことを尊敬し、人間の大きさに賛辞を送るうちに、そこに到達できない自分との距離を築いてしまう。こうなると、相手に対する場面では、どこまでも自分を隠し、偽り、格好良く振舞うしかない。

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ライダーの冬(真骨頂・本質・面目について)

時節柄、あまりバイクの話は盛り上がらないわけですが、バイクの好きな人はみんなそうであるように、ハッキリ言って春を待ちわびているのです。冬はレースもオフシーズンですし、何と言っても寒いのは如何ともしがたいものがあります。


僕なんかはバイク好きを語っていても、走ればスポーツカーよりも遅く、何よりもコケることを最大の嫌悪としているようなヘタレライダーですから、こんな寒風吹きすさぶ季節には、エンジンに火を入れることも怠ってしまうようなダメっぷりを露呈してしまいます。冬は僕にとってまさに冬。春を待ちわびながら暖房の前でバイクのカタログをパラパラ捲るのが関の山なわけです。


さて、そんな僕にも、ホンモノのライダーと呼ぶに相応しい友人がいます。全国的に雪が降ると言われていた先週末も、我慢が出来なくなって走ってきたと言います。彼とはバイクに乗らないまでも、生き方や思想、世の中に対する視線など共感することも多く、また音楽などの趣味においても波長が合うわけですが、その中でこのバイクに関しては、面白いぐらいに接し方が違っており、逆にその違いが世界の広さを認識させるに至っています。これまでも多くの事を語り合ってきたわけですが、簡単に言えば、僕は上述のとおりバイクはあくまで生活の彩りの一部でしかなく、バイクに求めるのはあくまで快楽であり、日常とは切り離されたところにある我儘な時間といったものなのです。だからバイクに乗るのに苦痛は避けたいし、非日常の快が得られないなら意味はないのです。これに対して彼にとってバイクとは日常というか、身体の一部であり、バイクに乗るという行為がより深く生活の中に入り込んでいます。結果、僕が選ぶバイクは身の程知らずなオーバースペックであったりラグジュアリー志向であったり、自分を超越する何かをバイクに求めているところがあることに対し、彼の選ぶのは、あくまで等身大の相棒とでも言うべきマシンで、そこには常に対話があって、機能的な所へも手を入れていくというような、より現実的な視線があるわけです。


寒風、そして雪が舞う中を走ってきた友人は、


「身を切るような寒さにへこたれそうになりましたが、こんなに寒いのに乗っているという”劣位の優越感”に浸っておりました。」


と、満足げにメールを送ってきました。とても面白い表現だと思ったので、僕は


「劣位の優越感か・・・それはニュアンスとして素晴らしい表現です。決してこれは自虐ではない。自分の内向きとしてはこれは優越なのだという譲れない気持ち。しかしもう状況を見れば劣悪という以外説明する言葉を持たない。かといってここで自虐と言ってしまうと、自らの内面に劣悪を受け入れてしまうことになってしまう。僕は郵便配達員ではない。どんなに状況が悲惨で過酷なものであろうとも、僕は能動的にバイクを駆る。優越感を得るために貪欲になる。このせめぎ合いですね。」


というふうに返しました。これからも彼は走り続けるでしょう。ホンモノのライダーです。僕は・・・僕は暖かくなるまでカタログを捲ります・・・。

悩んでいるヒマはないのか(続・結婚観について)

前回の続きとして、今度はいわゆるキャリアウーマンの投稿について考えたものです。これまで仕事一筋に生きてきた。モチベーションを保つために、今から思えば、ある意味虚勢をはってきた自分に気がついた。周りを見ても、誰一人、もう自分には愛を語りかけてくれる人もいない。結婚は向いていないのではないか・・・。さて、どう答えましょうか。


結婚の是非については、大昔から偉人の言葉がいくつか存在しますが、現代でも充分通じるところがあるのは興味深い事実だと思いませんか。
たとえばソクラテスは、
「結婚することもできるし、結婚しないこともできる。何れにせよ、あなたは後悔するだろう。」
また、武者小路実篤は、同じようでも前向きに捉えて、
「結婚するのも幸せだし、結婚しないのも幸せだ。どっちにも人間としての喜びがある。」
私は2度結婚していますが、自分自身になぜそうしたのかを問うてみても、結婚それ自体に答えは無いような気がしています。むしろ、一度目の結婚は今から思えば単なる一時の心地よい昼寝であり、2度目のそれはもはや結婚というよりも、私にとってはカルチャーショックとでもいうべきものでした。
この2つの偉人の格言や私の恥ずべき経験が示しているように、結婚それ自体に人生の意味を求めても、もっと言うなら意味を擦り付けても、満足感や幸福の答えというのは返ってこない。原理的には別物だということです。
ただ、人間の生きる世界というのは自我の関係性により出来ているといわれており、自我即ち基本的な欲求は他者から認められたいというものが底辺にあるので、他者との関係性を持たずに人間の生はあり得ないということです。この視点からいえば伴侶を得ることは世の中の流れに自分も同化することではありますが、自分のめがける内面の充実やロマンの実現には、何も結婚だけがもたらすものだと考える必要性はない、と言えないでしょうか。
あまりあなたを元気付ける言葉になっていないような気がしますが、あなたは、多くの主婦が実現できなかったことを成し得たわけですから、自信を持っていいと思います。そもそも、私が先に述べたことから言えば、「結婚に向いている人間」などというのはせいぜい、花嫁衣裳が似合う人というぐらいの意味でしかありません。同様に「私は結婚なんか向いてない」というのも、幻想であり、それがあなたにとって大きな意味を持つとは思えないですね。もし私があなたなら、自分で働けなくなるまでじっくりと伴侶を選定するでしょうね。


・・・今から思えば、女性は男性のようにいつまでも夢物語を語っているわけにはいかない事情があります。女性が結婚に関しての悩みを投稿する場合、そのほとんどがその身体的事情に根源があって、現実的にならざるを得ないのかも知れません。でも、だからと言ってほんとうに重要なことに蓋をして結論が出たとしてしまっては、後々に問題を先送りにするだけです。

悩みどころはどこなのか(結婚観について)

お正月には、親戚が集まって話をする機会もあるでしょう。ちょうど僕らぐらいの歳になると、親類の中に結婚適齢に差し掛かる男女もいて、周りから「そろそろだなあ」とつつかれたりしています。昨今は晩婚化や結婚そのものに意義を見出せない例が言われ、僕も以前、掲示板に回答したことを思い出しました。自分は、一生独身でいるつもりはないけど、また、自分で決めるべき事だと把握もしているが、どうしても結婚というものがピンとこない。結婚って何だろう?


ソクラテスは、「結婚することもでき、結婚しないこともできるが、いずれにしても、貴方は後悔するだろう。」と言いました。また、武者小路実篤は、「結婚するのも幸せだし、しないのも幸せだ。どっちにしても、人間としての喜びがある。」と言っています。
他にも、有名な言葉に、「結婚前は両目を見開いておき、結婚したら片目を閉じなさい。」というものがあります。
あなたは、結婚願望がないといいながら、適正年齢を把握し、漠然とした不安感に煽られてもいます。また、環境がさせるのではなく、あくまで自分の判断により決定することも理解しています。
ピンときていないどころか、あなたほど正確に結婚概念を持った人はいないと言えます。
ただ、なぜスッキリしないのでしょうか?それは、結婚という言葉に捉われすぎているからです。結婚するという行為は、その動機にはじまり、2人にとっての意義や形態、将来的な展望に至るまで、千差万別であり、星の数ほど存在するのが実態でありながら、一度「結婚」という言葉を発し、耳にしようものなら、ある一つの理想のイメージ(それは良いものであることが多い)や固定化された観念が大きくのしかかってくるからです。
そもそも、人間というのはそれぞれが独自に価値基準を持ち、他人と意識を摺り合わせて生活しています。この束が社会を作っているのです。離婚する芸能人が記者会見で、その原因を「性格(趣味嗜好)の不一致」というふうに言っているのを見かけますが、これは本末転倒の苦しい言訳にすぎません。性格が一致しているから結婚するのではありません。不一致を認め合うことができるから結婚するのです。片目を閉じることにも意義があると思います。確かに、結婚というバラ色のイメージが枯れるのは寂しいことかも知れませんが、これは単に、夢想や理想に見切りをつけるということを指すだけなのではない。開いているほうの目で相手を見たとき、気がつかなかった、得がたいものを発見することだってあるのです。


・・・まだ見ぬ生活にイメージを膨らませるのは、確かに現実から離れることでもありますが、あまりに打算的な態度であっても、良いものを呼び寄せない。しかし冒頭の偉人たちの警句は、人間の幸福が、実は結婚というものそのものとは本質的に別次元の項目であるということを語っていると思います。

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