難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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この世界はどこから眺めるのが美しいのか

「私は天然だから・・・」或は「私は童顔で子供っぽいから・・・」と振舞う人を見て、それをものすごく嫌ってしまうが、一方で、嫌ってしまう自分の性格も良くないのではと思っている人がいました。こうしたことに捉われない、性格美人になれないものだろうかと言います。そこで僕も考えてみました。


あなたが掲げる2つの人のタイプというのは、人間の自我の働きから言って、どちらも同じ地点に立って、同じようなことを言っているにすぎません。
人間は誰でも自我を持っていますが、この自我というのは本質的に他人に認められたいという欲求です。ゆえに人間は他者との関係性をなくしては、つまり一人では生きられないのですが、あなたが自分のことを「性格悪い」と思うことも、他人のそういった媚び諂いを不快に思うことも、「ふんわりした性格美人に」なりたいと思うことも、全て自我の成せることなのです。
このことがあなただけでなく、世の中の人間全部にそれが起こっているので、この世の中は、承認しあうことによって成り立っている世の中だということができます。
そこでどうしたら、「ふんわりした性格美人に」なれるかという問題ですが、まず、なぜあなたが掲げる2つのタイプの人間を不快に思うのかということをご自分で認識する必要があるのですが、一言でいうならそれは、あなた自身が今現在、その嫌悪する対象と等身大である。ということに尽きると思います。
人間が、自我の関係世界に生きる以上、自我の持つ本分によって、この世の中は承認し合う世界であると同時に競争ゲームの世界です。全てが、よりよいもの、より美しいもの、ほんとうのものを目指すということです。あなたが周りの人に反応してイライラしているということは、その他人の言動が、自分の価値基準や美に対する意識を大きく揺さぶっているということなのです。
ということは、それを超える、凌駕するような自我を育てるしかありません。上には上があるとは、よく言われる言葉ですが、この世の中は、「天然」とか「童顔」とか、そのような安易な評価に縛られないほど広く奥深いものです。
また、あなたの「ふんわりした性格美人」を認めるのは、あくまでも他者だということも忘れないでください。


・・・目に映る世界だけが全てではない。より大きく、より深く、より多様な世界が広がっていることを知り、周りの人よりも広い視野で生きて欲しいと思います。情報化時代とはいえ、生活の中で見渡すことができる世界など、案外狭いものです。こうした中だけで自分の価値基準が出来上がってしまうことは、価値基準自体が薄っぺらなものにしか育たない。周りを見て成長するのは人間として最低限の仕事です。要は、そこからどれだけ飛躍できるかでしょう。

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震えるハートは誰が運ぶのか

愛の告白の日は過ぎてしまいましたが、恋の悩みは至るところに存在しています。ある人は、好きになった人に自分の気持ちを伝えたいが、どうしても切り出す勇気が無く、占い師に鑑定してもらったところ、「縁が無いからあきらめよ」という言葉をもらい、意気消沈。このことをキッカケに、縁や運命とは何か、占いってなんだろう、という疑問が出てきたといいます。


ときめく時期ですね。お気持ちはお察しします。
私は、「縁」というのは「運命」とほとんど意味的には同じだと思いますね。よく、理想の結婚をして、幸せの只中にいる人に話を聴くと、「人間には、この人が自分にとって特別な存在だと思う時がある。これは縁というものなにものでもない。」「自分にとって夫(あるいは妻)は特別な存在。運命がこれを出会わせた。」というコメントに出会いますが、これは気持ちとしてはすごく良くわかる話なのですが、原理的なことを言うと、これはどちらのコメントも、お互いが出会って、それぞれの人間が持つ自我の奥底までを認め合うことが出来る関係になったのだということになります。
これは何も、前提として「縁」や「運命」があったのではない。むしろ、お互いの自我が認め合われたその時に、「縁」や「運命」という言葉のイメージが、これを説明するのに一番納得のいくものだという認識に「成っていく」のです。複雑な人間の自我は、それぞれの人間がそれぞれの形の自我を持っているだけに、なかなか、お互いの奥底までを見通すことができない。しかし、それでも自我を認め合う事こそが、人間が生きることそのものなのです。そこにかけがえのなさを感じても、不思議ではありません。
あなたは、自分自身でも占いの言葉や鑑定士の言葉を「情けない」ものだとし、また、自己の自我が弱いものだという直観もあるわけですが、お察しのとおり、占いや鑑定には、原理的な根拠や説明は存在しません。それはむしろ、あなたの恋そのものを、言ってみれば物語化するためのアイテムに過ぎないのです。占いや鑑定の結果を肯定的に捉えることで、あと一押しの背中を押す材料にすることもできれば、思いとどまらせる材料にすることもでき、また、結果がどちらになるにせよ、それをドラマチックなものに演出することもできれば、悲観、絶望するときの原因に持っていくこともできるのです。
要するに、恋の大きさに負けないために、自分に対して持つ「勇気」と成り得るものだといえますが、結果を左右する直接的な働きというものは、全く持っていないということだと思います。
あなたの恋が単なる「玉砕」にならないような方法が一つだけあります。それは、「想いを伝える」だけでなく、あなたのほんとうを、自我の奥底を、相手に知ってもらうように方法を考えるということです。認め合う事ができたなら、それは「縁」や「運命」と呼ぶに相応しいものでしょうが、覚悟のいる話ですね。


・・・こういう話になると、つくづく自分の回答は面白くないですね。つまり、恋愛に原理的な要素を持ち込むことは夢の無い話になってしまうということです。恋に必要なものが純粋さや可愛らしさであるならば、占い師の言葉を素直に聞けることのほうが余程健全かも知れません。

あなたのハートの形はどんな形なのか

世の中そろそろバレンタインデーです。もうこの歳になってそのこと自体とやかく言う気概もないわけですが、一体世の中の人々は恋愛とか性愛についてどのように考えているのでしょうか。ある人は、自分の持っている恋愛感や感情で、愛を語るに足りるのだろうかと問うています。少し考えて見ました。


質問の文そのものが漠然としていて様々な解釈ができそうですが、問いたいのは、自分が他人を愛するという心情に確信や誇りを持つためには、今現在自分が持っている恋愛観念や感情を持ち出すだけでこと足りるのか、一般的にそうしたもので認められるのか、ということになるのでしょうか。
可能不可能の二元論でいけば、それはもちろん不可能ということはできないと思います。しかし、あなたが問いたいほんとうの事は、そんなことではないのでしょうね。
愛というのは自己愛にはじまりその対象となるものが一様ではないので、言葉そのものの解釈だけを取り出せば愛はすなわち自分が認める惹きつけられ(竹田青嗣先生的に言えばエロス)に対する信望とでもいいましょうか。しかしここでは、あくまでも質問文からの推測で、他人への愛それも、恋愛ということに絞っていいとします。
私の考えとしては、一個人の恋愛観念や感情が性愛や恋愛を完全に説くことはできないというのが答えですが、それは以下、このような人間の関係性の本質がある限り、ということです。
人間は、自我を持つ生き物であり、他人と関係するとき接点となるのは自分が形作っているこの自我なのです。言い換えれば、個々の造りだした意識や欲望が他人と触れ合っているのであり、故に本能のなせる結果だけで世の中が動いているわけではないのです。人間の自我はその一個一個が異なり、また時間とともに変化するので、それらが関係することで世の中が出来ているということは、性愛ひとつをとっても複雑で多様な形をしていることはすぐに想像できるでしょう。
この世界で、人間が基本的に目指しているのは、自分の価値を高めようとする意識です。みんなに認められたいという欲望です。このためには、自我を多少ゆがめてでも世の中にあわせなければならない部分も出てきます。文字通り、我が儘なだけでは、必ずどこかが異なっている他人の自我の集まりである世の中とマッチしないからです。一方で人間は、素のままの自我、つまり自分だけが追い求める自我の世界(ロマン性)というものを誰でも持っており、自分の価値基準が、よいもの、美しいもの、好ましいものなどの序列を造るのです。この2つは、たいていの場合、こちらを立てればあちらが立たずという関係にあり、故に生きることは日々大なり小なりの挫折が付いて回るのです。
この見方でいえば恋愛は、よく「盲目」と言われますが、自分の価値が他人に認められるのと同時に、自分の持つロマン性をも満たすような特殊な経験です。それが故に失恋というのは、その両方の損失になるので、過酷なのです。


・・・このように利いた風なことを書く事が出来ても、僕が恋愛のプロフェッショナルであるかというと全然そんなことはなく、むしろ他者から見れば不器用この上ない人間に見えるに違いありません。何故か。それは、恋愛というものは、僕だけが持っている確信だけでは成立しないものだからです。

犬も歩けば棒に当たるのは愚かな事か

シンプルで、キレイな文章で投稿する若者がいました。自らが人生を歩めば歩むほどに身につける知や経験は、本性として持っている無垢な心象や敬虔な世界から自分を遠ざけていくばかりではないだろうかという気持ちを、虹の出現になぞらえて書いてあったと思います。


うーん、なかなかに詩的な文章。失礼ながら、若いのに見所ある少年だな。と思いました。
僕も昔は良く考えましたよ。そういったことを。まさに垢にまみれていく自分に辟易したり、虚無や厭世に陥ったり。
しかし、あなたの言う「詮索」というのは、実は人間が生きることそのものという他ないと思います。あなた自身が哲学に親しむことをライフワークにするなら、神の存在や、世界の始まりが、人間の「敬虔な気持ち」では説明がつかないことを、やがて知る事になります。これは虹どころの話ではないと思いますが、どうでしょうか。
むしろ、問題が「虹が人間に見せてくれるもの」というものに限定されるのなら、「詮索」を経た後にさえ、人間は、再び、虹に対してロマンを展開することだってできる存在なのです。また、私自身も、そういう人間でありたいと思います。
もし「詮索」が物事の原理を掴み取るための代償として何かかけがえのないものを消費するだけの行為であるなら、あなたは「詮索」を止めればいいのです。しかし、それでもあなたを含め、全ての人間は、「詮索」せざるを得ない存在なのです。


・・・確かに純粋さは、かけがえなさ故に守られるべきものだと、誰でも考えることができるでしょう。しかしどんな人でも、生きている以上は立ち止まっているわけではありません。歩くことが必然なら、棒にあたることも受け入れるべきだと思うのです。しかも虹は一つではない。世界には、まだ見ぬ虹が沢山あるのです。このことを見失いたくありません。

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