難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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犬も歩けば棒に当たるのは愚かな事か

シンプルで、キレイな文章で投稿する若者がいました。自らが人生を歩めば歩むほどに身につける知や経験は、本性として持っている無垢な心象や敬虔な世界から自分を遠ざけていくばかりではないだろうかという気持ちを、虹の出現になぞらえて書いてあったと思います。


うーん、なかなかに詩的な文章。失礼ながら、若いのに見所ある少年だな。と思いました。
僕も昔は良く考えましたよ。そういったことを。まさに垢にまみれていく自分に辟易したり、虚無や厭世に陥ったり。
しかし、あなたの言う「詮索」というのは、実は人間が生きることそのものという他ないと思います。あなた自身が哲学に親しむことをライフワークにするなら、神の存在や、世界の始まりが、人間の「敬虔な気持ち」では説明がつかないことを、やがて知る事になります。これは虹どころの話ではないと思いますが、どうでしょうか。
むしろ、問題が「虹が人間に見せてくれるもの」というものに限定されるのなら、「詮索」を経た後にさえ、人間は、再び、虹に対してロマンを展開することだってできる存在なのです。また、私自身も、そういう人間でありたいと思います。
もし「詮索」が物事の原理を掴み取るための代償として何かかけがえのないものを消費するだけの行為であるなら、あなたは「詮索」を止めればいいのです。しかし、それでもあなたを含め、全ての人間は、「詮索」せざるを得ない存在なのです。


・・・確かに純粋さは、かけがえなさ故に守られるべきものだと、誰でも考えることができるでしょう。しかしどんな人でも、生きている以上は立ち止まっているわけではありません。歩くことが必然なら、棒にあたることも受け入れるべきだと思うのです。しかも虹は一つではない。世界には、まだ見ぬ虹が沢山あるのです。このことを見失いたくありません。

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