難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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春はあなたに何をもたらすのか

暖かくなりました。毎年、暖かくなることを待ちわびてはいるのですが、この時期は同時に花粉の飛散もあって、痛し痒しなこのごろです。僕はこの季節になると、思い出すある光景があります。掲示板の質問に、「美しい時間とはどのようなものか」というものがあり、それに答えたものを載せてみます。


美というのは自我を持つ人間が基本的に求めている惹きつけられの一つです。つまり美しいものというのは、良いものとか善と同じく人間の身体性や感受性に快さを与える対象です。求めることそのものが、人間が生きることや社会を形作ることに直結しています。そこで「美しい時間」とは、人間の自我(価値基準)がそれぞれ異なっていることから、本質的には同様のイメージになるにしても、表層的には様々な形が存在することになると思います。私の体験を書きます。
バルセロナの有名なグエル公園の展望台にある、タイル製のベンチに腰掛けた時にそれはやってきました。天候も暖かく穏やかで、空は青空であり、その下で世界各国から訪れた観光客が思い思いの場所に座り、景色を見、会話し、地元の子どもがボール遊びをし、腰掛けたベンチはガウディの手により絶妙な座り心地、もたれ心地であり、こうしたことが一体となって、まるでその場一帯が、地球の平和のイメージの縮図を実現しており、その中に自然に自分も溶け込むことができたかのような気分になったのです。妻と一緒だったのですが、同じようなことを言っていました。私たちはあまりの心地よさに暫くそのベンチを動くことができず、会話をしたわけではないですが、その他の人々も、なかなか立ち去ろうとしなかったのを覚えています。そんなに大きな広場でもなく、売店や凝ったアトラクションがあるわけでもなく、居合わせる人々が同じことをしているわけでもないのに、あの一体感や心地よさ、柔らかな空気は、言葉にできないかけがえのなさを感じさせるものでした。
私はこの経験から、人間の自我が求めているほんとうの姿を知ったような気がしています。それは華美なものでもなく、虚飾に彩られたものでもなく、物質的なものでも、打算的なものでもありません。それは、無言のうちに、異なる人々が認め合い、柔らかな心地よさで包まれるような、そんなイメージです。


・・・それぞれが思い描いて目掛けるところは千差万別の形があるとしても、それは何かの反動であったり、狭量な視野の中に入り込むうちに歪められていたり、少し離れた視点から見渡せば、それはあくまで格好が異なるだけで、本質ではないのではないか。むしろ、そういった個別の事情を越えたところに人の目掛ける可能性があって、それが目の前に確信されるのは、上述のような多数の人々に共有共感されるような場所にこそ現れるものではないかと思うのです。

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他人の手鏡に自分はどう映っているのか

「しっかりしてそう」だとか「完璧だ」と見た目で評価を受けているが、自己評価としてはそれとは正反対で、空っぽの自分を持余しているという人がいました。「見た目で嘘っぱちな評価をしないでほしい」とは言いつつも、一方では人の見ている場所でしか自分を高められないと言い、さらには「ギャルの子」に限ってキッチリやるべき事はやっているんじゃないか・・・そんな人に、どう答えましょうか。


他人からの視線は、誰しも気にならないといえばウソになります。あなたは自分の表層的な部分についての他人からの評価が逆にプレッシャーとなり、それに対応しようとするあまりに自分の内面を見失っているのだと思います。
しかし、なぜこのようなことが起きるのでしょうか。あなたも感じているように、人間には、見た目とは裏腹に、実はこういう人だという内実を持っている人もいれば、見た目そのままだという人もいます。
これは、人間が誰しも、自我を持っており、これを通して他人と触れ合っているからです。自我は個々人がもつ価値基準です。誰でも、自分のほんとうや良いもの、美しいものを思い描き、それに惹かれる力によって生きています。これは動物にはなく、人間特有のものです。そしてこの自我は、つまり自分の求める良いもの美しいものを、そうだと認識させているのは、他者との了解関係、つまり、自分の価値基準だけではなく、周りとの認識のし合いによって成り立っているのです。人間が、一人では生きられないという言葉は、このことを指しているのです。
他人は、あなたのことを評価するとき、まずはあなたの内実はどうあれその表層を捉えようとします。そして利害関係の無い場合は、往々にしてその表層のみであなたのイメージを持つのです。それが言葉となって返されます。同様に、あなたは「ギャルの子」を見て、その表層から、こういう子はこうなんだというイメージを持つのです。要するにここで行われている事は、自分の持っている鏡に他人を映し出しているに過ぎないので、それに囚われていても何の役にも立ちません。むしろ注意して耳を傾けなければならないのは、あなたの内面を知っており、親身になってくれるような人の言う事でしょう。そのような人は、あなたの表層だけのイメージから言葉を発することはないからです。


・・・評価は要らない。嫌いだと言う心情は、実は自らの価値基準を受け止めて欲しいという訴えの裏返しではないか。現代は、本来の人間関係である絆や自分に近しい周りの人々との信頼関係を遠ざける代わりに、日常とはかけ離れた画一的な観念やイメージを見つめ過ぎるきらいがあると思います。こうした認識の無いうちに、転倒した自我が悩むこととなった、そういう一例ではないでしょうか。

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