難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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他人の手鏡に自分はどう映っているのか

「しっかりしてそう」だとか「完璧だ」と見た目で評価を受けているが、自己評価としてはそれとは正反対で、空っぽの自分を持余しているという人がいました。「見た目で嘘っぱちな評価をしないでほしい」とは言いつつも、一方では人の見ている場所でしか自分を高められないと言い、さらには「ギャルの子」に限ってキッチリやるべき事はやっているんじゃないか・・・そんな人に、どう答えましょうか。


他人からの視線は、誰しも気にならないといえばウソになります。あなたは自分の表層的な部分についての他人からの評価が逆にプレッシャーとなり、それに対応しようとするあまりに自分の内面を見失っているのだと思います。
しかし、なぜこのようなことが起きるのでしょうか。あなたも感じているように、人間には、見た目とは裏腹に、実はこういう人だという内実を持っている人もいれば、見た目そのままだという人もいます。
これは、人間が誰しも、自我を持っており、これを通して他人と触れ合っているからです。自我は個々人がもつ価値基準です。誰でも、自分のほんとうや良いもの、美しいものを思い描き、それに惹かれる力によって生きています。これは動物にはなく、人間特有のものです。そしてこの自我は、つまり自分の求める良いもの美しいものを、そうだと認識させているのは、他者との了解関係、つまり、自分の価値基準だけではなく、周りとの認識のし合いによって成り立っているのです。人間が、一人では生きられないという言葉は、このことを指しているのです。
他人は、あなたのことを評価するとき、まずはあなたの内実はどうあれその表層を捉えようとします。そして利害関係の無い場合は、往々にしてその表層のみであなたのイメージを持つのです。それが言葉となって返されます。同様に、あなたは「ギャルの子」を見て、その表層から、こういう子はこうなんだというイメージを持つのです。要するにここで行われている事は、自分の持っている鏡に他人を映し出しているに過ぎないので、それに囚われていても何の役にも立ちません。むしろ注意して耳を傾けなければならないのは、あなたの内面を知っており、親身になってくれるような人の言う事でしょう。そのような人は、あなたの表層だけのイメージから言葉を発することはないからです。


・・・評価は要らない。嫌いだと言う心情は、実は自らの価値基準を受け止めて欲しいという訴えの裏返しではないか。現代は、本来の人間関係である絆や自分に近しい周りの人々との信頼関係を遠ざける代わりに、日常とはかけ離れた画一的な観念やイメージを見つめ過ぎるきらいがあると思います。こうした認識の無いうちに、転倒した自我が悩むこととなった、そういう一例ではないでしょうか。

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