難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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続・正しいとはなにか

前回の記事では、自分自身の価値観を持つことに自信が持てない人について書きましたが、似たような話で、「善」イコール「正しい」は成り立つのかという質問に回答したことがあるのを思い出しましたので転載します。


多くの人々の「善」の認め合いが「正しい」を産むのであって、あることが初めから「正しい」のであれば、人間は予め定められた道をただ歩むだけの存在になってしまいます。
本質的に「善」に惹きつけられるのは個々人の自我の働きですが、何が「善」であるのかを知るためには、他者の持つ価値の序列との受け渡しが必要です。この営みが暗黙のうちに様々な「正しい」に繋がっていくのだと思います。
極端な例を言えば、自殺した人や他人を傷つけるような行為を成した人にとっては、それがその人にとっての「善」だったことを動かすことはできない。しかしこれを「正しい」とするためには多くの人がこの「善」を認めなければならないのです。


・・・私達は日常で、「これこれが正しい」、「正しい行いを」といったように、特に気にすることなく「正しい」という言葉を使っています。このことは、「正しい」ことの存在の仕方に、知らず知らずのうちに誤解や錯覚を引き起こす。つまり、「正しい」ことが絶対の真理であるかのようなそれです。しかし、上の例でも分かるとおり、「正しい」とは、特定の既成概念などでは決してなく、多くの異なる価値観の間から捻出する相互の納得や確信である、ということが分かると思います。僕はこのことを勉強したときに、モヤモヤとした感覚がパアッと晴れるような気がしたのを覚えていますが、果たして皆さんは、どうでしょうか。

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自分の考えはこれでいいのか(正しいとはなにか)

人の世の中は複雑で広く、いろんな考え方の人がいて、自分一人ではとても全てを知ることはできません。そんな中で、ある人は、「自分の価値観を確立することが怖い」と言います。なぜなら、「この世には正しいことなんてほとんどなく、自分のちっぽけな考え方を信じ通すことは危険だから」といい、悩んでいました。でも一方では、「そんなことでは一人前にやっていけない。とりとめのないことだ・・・」とも感じておられます。さて、どう考えればいいのでしょうか。


「とりとめのない質問」に対して、とりとめのない回答をしてみます。
あなたが人生を歩み、「正しいことなんてほとんどない」という直観を引き出しました。しかし、その思考そのものが、結果的には「正しいことなんてほとんどない」というあなたにとっての「正しいこと」になってしまっているのです。「正しいこと」の存在を否定することが一方では「正しいこと」の存在を是認するのです。
あなたの疑問の切り口や、こうした着眼を持つことについては素晴らしいことだと思います。しかし、「人間の本質」に触れようとするのなら、「何が正しいのか」「何が間違った価値観なのか」という観念を、既に実存するものと前提して思考していては確信には至らないでしょう。先のとりとめない回答のように、何かが「正しい」「正しくない」ということ自体が、既に人間の価値基準の一部を取り出しているに過ぎないからです。
人間の主体、つまり人間が能動的な運動を起こす原理は、身体的な欲求のみにあるのではありません。あなたは、お腹がすいていても、充分に睡眠をとっていても、それでもなお、今より次の瞬間を「善いもの」にしようとして日々暮らしているはずです。自我というのは「善い」「ほんとう」「美しい」に惹きつけられることが本性です。この本性に従って生きるには、実現に向けて可能性をめがけなければなりません。これが人間の本質です。また、この個々の人間が、「善い」や「ほんとう」を認識するのは、他者の自我との承認関係の上にだけ実現することなのです。価値基準のやり取り、受け渡しが行われない、全くの一人の世界では、「善い」や「ほんとう」を認識する動機や必然が持てないからです。
確かにあなたが言うように、世の中には沢山の「価値観」で溢れています。しかし原理としては、どのような「価値観」でも、それが初めから人を超えたところに超越的に存在しているのではないのです。先の自我の本性から言えば、ある価値観がそこにあるように見えるためには、多くの価値基準がそれを「善い」と認め合っている、それに支えられている必要があるのです。


・・・日本は今、自然の巻き起こした未曾有の力と戦っています。復興と言うのは、ただ単にもとの姿に戻ることではない。人々は、誰が何を言うわけでもないのに、自然により善い世界を作るために活動するでしょう。それは丁度先に述べたように、一人ひとりの自我が善を目掛け、それが大きな束となって可能性の姿を形作ることと同じです。もし仮に、ある価値観が絶対的で、ある正しさが予め決められた世界であるなら、一人ひとりの持つ善や価値観は、意味をなさないものとなるどころか、持つべき動機や気概さえ失い、被災地が復興を遂げることはできないはずです。

ポテトチップスは薬に成り得るか

仕事が忙しくなって、ただでさえ消え入りそうな、僕の細々としたブログの更新が止まっていました。長けた人なら、こんな時でも短時間でサッと記事を仕上てアップされるのでしょうが、残念ながら不器用な僕はそのような技量は持ち合わせないばかりか、仕事でストレスを抱え込んで肩こりや偏頭痛を患う始末です。

さて、ストレスと言えば以前、某掲示板にこんな質問がありました。

「ストレスが溜まった時には、どんなものを食べますか?」

普通なら思い浮かぶ食べ物を羅列するところでしょうが、捻くれた僕は思い当たることがあったので、以下のように回答してみました。


挫折やストレスによる疲弊があってもなお、そこから立ち直ろうとする人間の存在とは、一体なんなのでしょう。
あなたが指摘するように、自然の恵みや、自らの食欲そのものが、私たち人間に、生きよう、次の瞬間をより善いものにしよう、と呼びかけているのです。個別にはいろいろな事情や欲、逆にネガティヴな思考諸々を持っているとしても、人間の生の根源的な本質というのは、突き詰めれば全てが自我の持つ本性に繋がるのです。それは、常に可能性をめがけることなのです。
何かの映画で、「ストレスが溜まったからポテチを買って来い!」と発言するシーンを見たことがあります。私は医学的なことや科学的なことは疎いのですが、スナック菓子をバリバリ咀嚼することが、なんとなく気分を善いものにする効果がありそうな気がします。ポテトチップスは一般常識として、特に健康上有益なものとは解されていませんが、ストレスを溜め込んだ人にとって、栄養価の摂取云々よりも優先する事項があるのであって、ここではポテトチップス(の咀嚼)に、その可能性を見出しているのです。


・・・動物の行動の主体は肉体にあり、空腹という身体の要請を満たすことの他には食べるという契機はないことに対し、人間とは複雑なものです。より上質な味を求めるがために、他者との時間を共有するために、経費バランスを図るために、提供者の自尊心を傷つけないがために、ストレスを緩和するために・・・食べるという行為だけでも、際限なくその契機を見つけられることだと思います。

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