難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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本当に「超越したカッコイイ仕事(super cool biz)」になり得るか
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いいか悪いかの判断は別、というか自分ではできないとして、僕は物心ついた頃から他人に服装を規定されるのが好きではありませんでした。いま、自分とは何か、自由とは、裁量とは何か、こうしたことに常に関心があり、日々学ぼうとしている者にとっては、自らが着用するものは完全に自分の世界の話なのであり、その全てにおいて責任を持つという心情の上にこそ自由が享受できるのだとするなら、自分以外の何ものかが「これを着るべき」とすることは、邪魔であり余計なことでしかありません。

さてそこで、「クールビズ」ないしは「スーパークールビズ」ですが、僕は否定はしません。だけど、どうしてこうも不器用な提案の仕方しかできないのか、と思うところはあります。簡単に言うと、「この度よりTシャツやジーンズは○で、でもこれはダメです。」この言い方が、いかに稚拙で陳腐なフレーズだということに、誰も気付かないのだろうか、ということです。これではまるで、学生の校則です。

当然賛否の中では、この個別の品目の可否について議論があることだと思います。だけどそんな事よりも、夏場の電力不足に対して何が有効なのか、着る者も見受ける者も、お互いが快いビジネスシーンとはどんなものなのか、こういった事について、誰もが考えていけるようなキッカケを提案することのほうが、余程重要なのではないかと思います。

この日本という国では、勤勉さが美徳とされてきました。「Tシャツやジーンズは○」と言われても、このイメージが勤勉さに繋がるには、相当な時間がかかるような気がします。一方で、この地球上には、ランチから3時まではシエスタ・・・でもそれが「当たり前」というような社会もある。僕は自分が日本人離れしたパラダイス的な感覚の持ち主だとは思っていないし、むしろ律儀な性格だから慢性的な肩こりや偏頭痛に悩まされる。でもそういう僕から見ても、「服装」を規定することにより夏場をなんとかしようというお話は、あまりに不器用で、滑稽だという印象を拭えません。
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「鏡よ鏡、この世で一番・・・」と唱えることは間違いか

ある学生が、レポートの課題として、美を追求する人間の諸活動の今昔様々な例から、美しさを追求することはどういうことなのかを書かなければならないと言っています。そこで僕も考えてみました。


課題として出された「材料」が共通して持っているのは、時代や背景の差こそあれ、「美」にまつわる「価値」や「価値観」が多様化していることを示しているに過ぎないので、「材料」そのものにこだわっていると、太古から人間が「美」を追求する原理、つまり、なぜ人間は「美」を欲するのか、根源的な思考から遠ざかることになってしまします。
あるテーマについての文章を展開するときに、材料が与えられているとすれば、それは一つの思考の契機であって、切り口として利用することに止めるべきで、本質的には、いまの場合でしたら3つの材料から、形や手法が異なるにもかかわらず、「美」について人間が突き動かされている原動とはなんであるか、なぜ「美」が人間に多様な価値や価値観を生み出すことになるのか、こういう思考を軸に展開するのが良いのではないでしょうか。
「美」を追求することがポジティブであるかネガティブであるか、こういう考えは実は本質的に「美」に惹きつけられている人間の自我の表出の仕方のバリエーションでしかないと思います。特に、ネガティブな考え方というのは「美」に対する多くの価値観の中の反動形成に過ぎず、多くの価値観から自分は埋もれないようにしたいという自己表現の一つの手段なのです。
いま、このことよりも重要なことは、人間が「美」をめがけるのはどういう原理によるのか、そもそも「美」とは、動物にとって、とりわけ人間にとって、どういう対象性を持っているのか、ここを考える事だと思います。
まずは、「美」にはいろいろなものに対する「美」がありますが、「材料」にもあるように、とりわけ人間の女性の見た目の美しさ、これだけに絞ってみても、すぐにわかるのは「絶対的な美」というものは存在しないということです。時代によって美人の基準が変わり、民族によって美の価値観が異なり、写真家や芸術家と一般大衆では、見ている部分が違うのです。「美」と一言で言っていても、細かく言えば一人ひとりがバラバラな価値観によって「美」をイメージしている。しかしながら、人間は一様に「美」や、「善」に惹きつけられて生きています。「美」は、固定化された観念ではありません。一個一個のめがける「美」が、たまたま多くの価値観の一致や共有を見出し、共通認識のうえに「あの人は美しい」とされているに過ぎないのです。仮にその人が老化しない、微動だにしない存在であったとしても、永遠に美しいという認識にあることは保証できません。人間の「美」や「善」の価値基準は、どんどん変容していくものだからです。また、「美」や「善」が予め絶対的に定まっていないからこそ、生きること、生命には自由があるのです。


・・・あるものが美しいかどうかという問いは、どんな人でも日常遭遇することですし、それは自らの価値の序列に直接訴えかけるものですから、生きている上で呼吸をするのと同じぐらい重要な事柄だと思います。しかし一方では、呼吸をすることと同じぐらい身近であるので、普段なかなか意識的に原理的な部分まで思考することは難しい。でも少し考えてみれば、美は誰のものでもなく、誰かが決定付ける権利を持っているものでもないことがわかります。と同時に、それを越えたところにある、万人に共通の惹きつける力、これに気づくべきです。

Intermezzo Cavalleria Rusticana
心に直接訴える音の力とは、何でしょうか?それは、技巧や名前、国境、人種、信仰、性別など、凡そ人と人とを隔てている作られた壁を取り払ったところに、あなたも私も同じように震えている心を見つけさせることではないでしょうか。
 格好イイことを言うつもりはありません。耳を澄ませば、多くの人はこのような曲に涙を禁じえないでしょう。共有する心の形、同じ想いを見つけあうことは、自然の脅威が災いを巻き起こそうとも、それに負けないで復興しようとする人々と、惜しみなく助けの手を差し伸べる人々の心の形が同じものであることと似ています。



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