難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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完熟ミュージック
すごくマニアックなものだから、なじみがないとは思いますが、僕はラウンジとか、モンドミュージック、イージーリスニングと言われる音楽がとても好きです。楽曲というものが果実だとしたら、差し詰めこういう音楽は良く熟れた、濃い味のする、香りのキツイ実だと言えるでしょう。時に下世話だったり、食傷気味な場合もありますが、それは確信犯的にもたらされる味なのです。匠の技から存分に繰り出される音の綾によって搾り出されたエキスが体内を駆け巡るとき、ファーストクラスで大空を舞ったかと思えば、エキゾチックなブリーズを浴びてコンヴァーチブルを走らせ、甘美な午後のデイドリームに微睡んだあと、地平線に沈む夕日をバックにクルーザーでどこまでも、そして欲望渦巻く都会の夜は不夜城となる・・・「いやー、映画ってほんっとにイイものですね。それではまたご一緒に楽しみましょう。」って言いたくもなりますよ・・・









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西風と太陽(オキナワ01)
平凡な庶民の僕と、その小さな家族は、誰がどう見てもその暮らしぶりはささやかで、デュラレックスのコップのように素朴で静かな日常を送っている。だけどそんな僕らでも、たまには月曜日と木曜日のゴミ出しを忘れ、絶望的に少ない朝の身支度時間を少しでも余裕を持って過ごすために、前日の夜のうちに米を洗ったり炊飯器のタイマーを入れたりしなくてもよく、日々汚れていく床や浴槽のことを考えなくてもいい、そんな時間に身体を漂わせてみたくなるのだ。これは決して贅沢とか、添加物とか、余剰とか、増してや高度消費社会における豊かさの享受などというエグゼクティヴなものではない。むしろ、日々の暮らしが僕らを少しずつ侵食し、磨耗させ、酸化させる諸々への対症療法なのであり、マイナス1や或いはマイナス3を0に戻す以上のことはないし、望まない。第一それ以上のことができる力量を備えていない。人々はもう何十年も日曜日の夕方に「サ○エさん」を見て次のウィークデーを大なり小なり憂えているが、一年間に52回憂鬱になることはあっても、サ○エさんとマ○オさんが離婚することを望むものはいないし、磯○家の前面道路がいつまでも未舗装で歩道が整備されなくても本気でツッコミを入れるものもいない。要するに、庶民にとっては日々挫折を味わい、鬱屈を抱える事は必然ながら、本気でこの世界から逸脱する事を望んだり実践したりするのは虚構なのだ。したがって、今週もサ○エさんは永遠の未就学児のママであり、来週も不変である事を告げたなら、大いに憂鬱な人もそうでない人も、ジャンケンポンで戯れて確認する。サ○エさんという動かない壁に跳ね返って、先週と同じ場所へ帰っていく自分を。
そんな「せいぜい」を背中にしょったような僕が、最大限リハビリテーションの効果を得るには、合理的に経済的にコトを計画する必要があって、果たしてその成果は後に書くとして、台風の隙間を衝いてリゾートホテルに滞在するという大博打を敢行することと相成った。しかし生まれてこのかた、こんなに一つの台風の動向を見守った事はない。思い入れ込みすぎて、彼と呼ぶまでに至ったこの台風は、僕の平成23年度後半の全てを握っているといっても過言ではなくなっていた。そんな僕の気持を知ってか知らずか、彼が目的地近辺にネチネチ居座り続けたのは、皆さんもご承知の通り。
だけど奇跡的に飛行機は飛んでくれた。僅かな僕の、モチベーションの種と共に。この際、台風に向かって飛ぶのが怖いなどと言ってはいられない。伊丹発那覇行ANA105便、ボーイング777-300は、南の島のリゾートへ行くにはあまりにも場違いな、レザーブーツやレザーパンツ、レザーグローヴにプロテクター付きのジャケットまで、約1名分ではあるが積載しているその意味を考えてもらわなければならない。(つづく)

新ネタ投入
ブログを始めてから一年が過ぎようとしている。読み返せば、結構色んなことを書き綴ったものだなあと思うが、僕のブログは結構異端で、他のブロガーさんのように自ら撮影した画像や映像をアップすることもなく、増してや、自らの身体を晒すなどもってのほか、といった感じなのです。

日々考えている事を書き綴れば、ブログを週に一度ぐらいのペースで更新できると思うけど、相変わらず辛気臭い文章ばかりが並んでしまい、お世辞にも楽しい画面ということはできない。辛うじて、音楽ネタのときにYouTubeを拝借する程度だ。うーん一年やってみたけど、いや、このまま続けることも出来るけど、そのうち読者になっていただいている貴重な方々にも、愛想をつかされるんじゃあないか?何か変化が欲しい時期だ・・・。

そんなとき、あるピグ友様から大胆な提案があった。「画像入りのルポルタージュをアップすれば・・・」僕にとっては大きな話だった。僕は自分の考えを文章にして、それを読んでもらう事には抵抗無く一生懸命になれた。だけど、自分の日々の営みを他の人に見てもらうことについては、むしろ出来れば見ないで下さい、そっとしておいてください、そんな気持しか持ち合わせていないのだ。

だけど良く考えてみたら、僕が何を好んで、何を目指しながら、どうありたいのかなどという話も、何も辛気臭い文章だけで表現しようとしなくても良いという世の中に、今や成っているのであり、皆、それぞれにツールや方法を駆使して、自由に自分を表現しているのである・・・。

前置きが長くなり過ぎですが、そんなわけで、今回から「REPORT」という新テーマを設けて、僕が見たもの、創ったものなんかを画像とともに記事にすることにしました。写真の腕前はド素人なので単なる資料に過ぎないです。(うーん大丈夫か・・・?)

記念すべき初回はなんと、のっけから自分を晒すことになってしまった・・・。(流れです。抗えません)これは何かと申しますと、自分でTシャツのデザインをしたということなんですね。最近の熱転写シートはキレイに写りますね。僕は何年か前に試した事がありますが、その時は結構悪戦苦闘した記憶があって、今回もそのつもりでギュウギュウアイロン押さえつけていたら、逆に少しコゲ気味になってしまいました。

うーん、全体的な出来映えについては、自分ではまずまずです。世界でも珍しい、「哲学T」が出来上がりました。(後ろの雑多な散らかりや、本人の体型や見栄えについてはツッコミは無しでお願いします)
$つぶやき以上虚言症未満-哲学T
甘い水と辛い水の違いはどこにあるのか(言葉の分水嶺)

ある人は、「嫌い」と表明することに抵抗があって、別な表現として「苦手」や「好きではない」と意識的に使っているが、この違いはどこにあるのかという質問をしていました。そこで僕も考えてみました。


「苦手である」も「嫌いである」も、社会の中で自我を摺り合わせることによって生きている人間にとっては、必然的に起こりうる摩擦の上で現れてくる心情には違いないのですが、あなたも指摘するように、「苦手」がその摩擦や軋轢が起こり得るという認識や、相手方の自我を含めた見通しを持っていることに対して、「嫌う」のは共有や未来に渡る可能性をも寸断する心情を呼び寄せるわけです。自らの価値観と合わないからといって、それをも含めて世の中であると認識することと、完全に目を瞑って避けて通ることとは全くやっていることが違います。
自分の自我が成長したり、一回り二回り大きくなるとき、良い事尽くめ、キレイな事尽くめだけでは、何かが欠けています。違う価値観、全く逆の考え方がこの世の中にあるのなら、それを支持する自我も存在していることを認識できなければなりません。ある考え方が間違っている、という事が出来るのなら、この世の中には絶対的に正しい事が予め存在していなければならず、それを決定付けて発言できる存在が必要です。しかし現代は、そんな世の中ではない。個別の考え方を相対化することは誰にでもできることで、より高度なこととは、それをも含めたこの世の中が、いかに折り合い、多くの認め合いを得る世界になるのかを考えることなのです。


・・・今の世の中、自分には「関係ない」ということを見つけることについては敏感な人が多いような気がします。しかしそれは関係性の上にしか生きられない人間の世界に一時的な寸断を設けているだけであって、世の中の原理から見れば我がままに過ぎない。汚れないように、怪我しないように、人に迷惑かけないように・・・親に人から遠ざけられて育った子どもが成長して、果たしてどんな人間になっているのか、こういう例を見ても良くわかることなのです。

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