難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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甘い水と辛い水の違いはどこにあるのか(言葉の分水嶺)

ある人は、「嫌い」と表明することに抵抗があって、別な表現として「苦手」や「好きではない」と意識的に使っているが、この違いはどこにあるのかという質問をしていました。そこで僕も考えてみました。


「苦手である」も「嫌いである」も、社会の中で自我を摺り合わせることによって生きている人間にとっては、必然的に起こりうる摩擦の上で現れてくる心情には違いないのですが、あなたも指摘するように、「苦手」がその摩擦や軋轢が起こり得るという認識や、相手方の自我を含めた見通しを持っていることに対して、「嫌う」のは共有や未来に渡る可能性をも寸断する心情を呼び寄せるわけです。自らの価値観と合わないからといって、それをも含めて世の中であると認識することと、完全に目を瞑って避けて通ることとは全くやっていることが違います。
自分の自我が成長したり、一回り二回り大きくなるとき、良い事尽くめ、キレイな事尽くめだけでは、何かが欠けています。違う価値観、全く逆の考え方がこの世の中にあるのなら、それを支持する自我も存在していることを認識できなければなりません。ある考え方が間違っている、という事が出来るのなら、この世の中には絶対的に正しい事が予め存在していなければならず、それを決定付けて発言できる存在が必要です。しかし現代は、そんな世の中ではない。個別の考え方を相対化することは誰にでもできることで、より高度なこととは、それをも含めたこの世の中が、いかに折り合い、多くの認め合いを得る世界になるのかを考えることなのです。


・・・今の世の中、自分には「関係ない」ということを見つけることについては敏感な人が多いような気がします。しかしそれは関係性の上にしか生きられない人間の世界に一時的な寸断を設けているだけであって、世の中の原理から見れば我がままに過ぎない。汚れないように、怪我しないように、人に迷惑かけないように・・・親に人から遠ざけられて育った子どもが成長して、果たしてどんな人間になっているのか、こういう例を見ても良くわかることなのです。

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