難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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西風と太陽(オキナワ04)
恩納村からはすぐに島の反対側、つまり太平洋側へ抜けた。そのまま北上すれば、歴史的な経緯があり地元では1号線と呼ばれる快適なR58を気持ちよく走れる事はわかっていたが、僕の物語ではここは夕日を浴びて南下してくる時にこそ走りたい、ラストシーンとしての設定になっているのだから、今味わうべきではないと判断したためだ。
北へ進むにつれて、行き交うクルマの数が極端に減っていく。アメリカの片田舎のような金武町を過ぎると、ヤンバルといわれる山がちな土地へと変化する。酪農の香りと、赤土と、時折むせ返るような草いきれを含んだ東南アジアの風。同じ旅路でも、リゾートホテルで感じる南国情緒は、どこまでいってもそれは南国情緒という言葉の範囲を超えない。あまりにも均質化されたお節介が入りすぎているからだ。だけど、もうここではそのような馴れ合いは皆無だ。初秋の少し遠慮の入った陽射しさえ、僕のささやかなadventurousを嘲笑うかのように照りつける。
それでも怯まずに、むしろハッとするようなコバルト色の入り江が目に入ってもバイクを停めず、黙々と走り続けるのは、「行けるところまで出来るだけ北へ行きたいから」が50パーセント、「久しぶりのツーリングでやはり興奮して浮き足立っているから」が48パーセント、「アメリカ兵が藪の中から出てきそうな気がする」が2パーセント、という心の内訳による。
西風は相変わらず強めで、思ったよりも早く雨雲を運んでくるかも知れない。物語のハイライトは中後半に集中しているのだ。結局、最北端まで北上するのは止めにして、今度は再び島を横断し、東シナ海側に出た。ここまで結構なワインディングも楽しめたのに、出会ったバイクはたったの1台で、普段は控えめにしているライダーの挨拶が、思わず大振りになってしまった。すれ違うライダー同士の一瞬の心の交流は、言葉を解さないところがいい。相手が何を思って、何を話すのかというような部類の話は、本来は自らに訊いてみるほうが余程前向きなのだ。

$つぶやき以上虚言症未満-kouri01

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今回の旅で僕に翼を与えたKAWASAKI W650は、僕がバイクに乗り始めたときに最初に手に入れたバイクでもある。決して速くはないけど、味とか音は美人の部類だ。海へ面したコンクリート斜面にいた若い男女が、苔で滑ることを予想していなかったのか、手をつないだまま海の中へずり落ちていくのを眺めていた。女のほうはさすがに半ばはにかんだ悲鳴をあげていたが、男のほうは無言で為すがままに海面へ落ちていく。君は彼女のどこが美しくて、どこが愛すべきウィークポイントであるのか、いつも考えているか?・・・さて、太陽も西へ急いでいる。次回でこの旅も最終回にしよう。(つづく)

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音楽の力
昨今、このようにPCの中だけで手軽に音楽を鳴らすことができます。僕もついその手軽さに捕まってしまうのですが、本当はそういうことを繰り返していては、耳がチープなものになっていくということを訴えたいと思います。久しぶりにCDを選び、かなりヴォリュームを上げて自宅のJBLを鳴らしてみましたが、それだけでも心に届くその「突き刺さり方」が全く違う。

かのG.フォーレは、「自分にとって音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるもの」と語ったそうです。人間が現実を超えて、持てるロマンを可能な限り膨らませていくことができる。音楽を創ったり、聴いたりすることは、既にあるもの、見知ったものをたまたま拾うことではなくて、もっと能動的な感受や想像力の噴出が、今あるものをも超えていくことだと。

僕は音楽業界とは関係のない人間ですが、それでも人生に対する音楽の価値については最大級のものを認めているつもりです。音楽とはDLされては捨てられるPCのファイルではないです。フォーレの言う事を自らの人生に取り入れるなら、少なくとも年に一度はコンサート会場へ出向くべきでしょうし、自室のオーディオも、可能な限り高級なものをそろえるべきです。やっぱり便利さや手軽さでは、小さなイヤフォンを震わせることしかできない。そして、心が震えることを知らないでいては、フォーレが言っていることの意味は解からない。

秋が深まると決まって出てくるもの
この曲は本当はイタリア人じゃなくてロシア人が作曲したらしいですね。しかもクラッシックでもない。ちょっと聴くと現代の感覚からすればベタで甘々過ぎて古臭いのかも知れませんが、こういうギリギリのセンチメンタルな曲調が、人間の心の奥底にあるノスタルジーに訴えかけることはよくあります。ノスタルジーと言えば、タルコフスキーの映画「ノスタルジア」もロシア-イタリア繋がりですよね。
こういう感覚は、秋が深まると決まって出てくるものみたいで、そういえば去年の今頃もデビッド・シルヴィアンの「Brilliant Trees」とかをアップしたなあと・・・皆繋がってるなあ。

西風と太陽(オキナワ03)
測量法の発見は、世界を均質化したという。つまり、古代の封建的絶対階級制度の世の中では、庶民の生活の場と、貴族階級以上のそれは、現代に生きる僕たちが想像できる常識をはるかに超えて、完全に隔てられた別世界として広がり、物理的にも精神的にも相容れることはなかった。そこへ、モノの長さや重さをある一定のモノサシで表しうるという常識が出現すると、たとえ明日をも知れぬその日暮しの貧民であっても、何でも思ったとおり実現できる王様であっても、手に持ったリンゴの直径や重さは、言ってみれば同じものであるということになったのだ。
実質的に窺い知ることも出来ない向こう側の世界が、実は自分の身の回りと変わらない世界として認識し得ることができる。もちろん今では当たり前の話だし、増してや情報化された世の中だから、どんな人間でも、それが当たり前として「知っていること」が圧倒的に多い世界なのだ。たとえ僕が南国の情緒溢れるリゾートホテルのロビーで、場違いなライダーズジャケットやレザーパンツを着込んで肩身を狭くしてレンタルバイク屋の送迎を待っていたとしても、「それはそれ」で片付いてしまう。

$つぶやき以上虚言症未満-hiro01

一方で、僕としては測量法の恩恵を受けた生活をしている。道路地図。確かに均質化や合理化は、世界に見知らぬ何かが待っているといったようなロマンの膨らみとは対極にあるようなものだ。メートルやキログラムが世界を小さなものにしたのなら、そこに沢山の情報を盛り込んだ道路地図などというものは、夢やロマンをお守りのように大切にする性分からすれば、何とも歪で、無粋なものとして位置づけられるだろう。だけど僕は、道路地図を片時も離さない。もう数十年も家のトイレにはロードマップが常備されているし、古くなったと思ったら更新する。PCを開ければ、必ずグー○ルマップにアクセスする。でもこれは、王様と貧民が同じ世界に住んでいる事を確認しているわけでもなく、特定の異性をストーキングするためでもなく、もっとれっきとした、切実な能動によって行われている事だ。

$つぶやき以上虚言症未満-hiro02

人は誰でも、知っている事や知り得た事だけで生きているわけではない。だけどこの自由な競争を生きる中で、より知っていることが多いほうが得をするような気がして、また、そうでなければ情報の回転寿司はどんどん流れていってしまい、なにも得られずに空腹を満たせないような気がして、多くはそこへ手を伸ばす事に精一杯になる。しかし人間は、そのようにして得られる知とか情報に対して、必ず自分を対比させたり、居場所を与えるような視点を持ちながら生きている。カラッポの入れ物に、どんどん詰め込んでいるだけではなくて、絶えず自分という存在にそれらをぶつけているのだ。
では、均質化や合理化、過剰な情報の波に流されずに、自分を支えてくれるものとはなんだろうか。それは物語だ。道路地図を見て、そこから情報を読み取ることは誰にでもできる。だけど、得られたものを自らの感覚と統合して街や街道の風景を思い描いたり、地名や地形から現地の人々の暮らしぶりを想像するのは、完全に自我の能動の領域なのだ。僕は、地図を見て読み取りながらロマンを付加する。すなわちこれは、マップ上の物語の製作なのだ。そしてまさに、このことのために地図を持つし、バイクでトレースするのは、完成した物語の試写会なのだ。(つづく)

$つぶやき以上虚言症未満-hiro03
座り心地の良いベンチはどこにあるのか

感情がぶつかり合うのは、どういう原理によってなのか、どうして人間は、イライラしたり他人を非難することがあるのかと質問している人がいました。


人間が野生動物と一番異なるのは、自我を共存させながら社会を築いていることだと思います。人間の言動は、野生動物のように単に身体的、生理的欲求に従属しているというよりも、自我という目に見えない幻想、簡単に言うと、こうありたいという思い描きに引き寄せられることによって、さまざまな活動をしていると言えます。つまり、他人と渡り合っているその境界はどこにあるのかと言えば、人間の場合は身体の大きさや強さ弱さといった目に見える部分ではなくて、個々人が持っている思い描きが言葉を介されて接触しているのです。それが証拠に人間の場合は身体が弱いものは食べられてしまう世界ではないし、お腹が一杯になればそれで良い、あとは横になるだけ、といったようなものでは飽き足らず、自然を犠牲に晒してでもあらゆるものを生産します。これを生きている人が漏れなく実践しているために、人間社会では暗黙とか常識とか、凡そ喜怒哀楽といったような単純な感情論だけで説明がつかないような関係性を創り上げるに至ったのではないでしょうか。
そこであなたの質問に注目するとすれば、上述のようなことがある以上、感情という側面だけを捉えて、それをどうにかしようとするには限界がある。あなた自身が気がついているように、「話し合い」というのは人間が持っている複雑な自我を、理性によってコントロールし、お互いが異なる自我同士に落としどころを見出す試みだと思うのです。そもそもこの社会にルールというものや、常識というものが出来上がって、それが成り立っている(ように見える)のも、多数の人々が異なる自我を差し出し、どこに納得を見出すのかということで出来上がっている。それが人間の世界なのです。


・・・自分で全てわかったようなことを書くことができてもなお、整理が付かない感情から意に沿わぬ言動をしてしまい、相手に迷惑をかけてしまう。僕もそういう日があります。言動の裏側に大きなものがあればあるほどに崖から転落する危険性は高くなってしまう。でも本当は、相手の事が見えなくなってしまっては、何もならないんですね。自業自得、スタンドプレイ、全く自分とは愚かしいものです・・・。

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