難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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「考える人」は、考えてばかりなのか

哲学って何の役に立つのか?どうやったら格好良く哲学していることになるのか?といったような質問がありました。僕はまだまだ駆け出しのレベルですが、思うことがあるので回答してみました。


例えばいま他の方が回答していますが、「哲学」と聞くと、高尚で難解な学問を思い浮かべて、それを身につけているとなんだか格好がイイというイメージを抱きます。
確かに近代哲学者の書いた有名な著作を読めば、素人には難解すぎて、何が書いてあるのか理解することさえできません。実際僕もその一人なのですが、じゃあ哲学というのは何のためにあるんでしょうか?そして、どうやったら哲学していることになるのか?
あなたも質問に書いているように、「どうしたら楽しめるのか」、哲学の旨味とはなにか、こういう視点は実は難解な哲学書がスラスラ読めることよりも、何倍も重要なことだと思います。一つの事柄を表す時に、これ以上遡っては考えられないレベルまで到達したそのプロセスを、取りこぼすことなく言葉にすると、特有の難解さや語彙の使いまわし、夥しい言語の量となり、これが哲学書の難しさや量の多さを招いています。つまり、この世とは何か、神は存在するのか等、人間の思考が届かないような無限のレベルまで遡る話を、人間は有限である言語を通じてしか議論できないのです。しかし、本来、人が生きていくことを考えるために、学問のために学問をするような時間と労力を要求していては、普通の人からはどんどん遠ざかる分野の話にしかならない。
難しい哲学書は横に置いておくとして、あなたや僕の視点でいえば、「哲学をする」とは、もっと身近で、実用的なもので、しかも人生を面白くするようなものでないといけない。僕の場合は、普段生活していて、様々な事象があって、それがどういう原理でそうなったのかを考える時に、その考え方がわかると、沢山の事に納得がいく。生きている上でモヤモヤとした疑問が、クリアーな視界で見通せるようになる。こうした経験の積み重ねが、自分の人生の自由度を広げる。そういう実感があるので、それが哲学なのかどうかはともかく、とにかく考え方を学んだり、物事の原理というものに意識的であったり、アンテナの感度を敏感にすることを大切にしています。
一見、複雑そうに見える人の世の様々な事象も、なぜそうなったのかを原理的に考えていくと、やがてそれは幾つかのシンプルな、しかし根源的な疑問に到達するのです。一番初めの例で言えば、哲学がカッコイイのは何故か、そこから、そもそもカッコイイとは何か、格好というのは何を指すのか、そして、イイとは誰がどこで決めるのか・・・このように解体していけば、物事の本質を考える事は難解なものではなくて、こどもでも持つような疑問の組み合わせであることが解ります。善悪の判断はどのようにして起こるのか、世界とは何か、自分とは何か、言葉とは何か、時間とは何か、そもそも、なぜ人間は疑問を抱かずにはいられないのか・・・
これはもう、充分に哲学的な問いだと思いますし、こうやって考えたその考え方が、日常のいろいろな場面で還元されたとき、ああ、自分は哲学を知っていてよかったな、と思えるのです。


・・・僕は時折周りの人から、「堅苦しい」とか、「難解」とかいった評価を受ける事があります。でも本当は、僕の日常が難解な言葉や思考で一杯かと言うと、そんなことは全然ない。いいかげんで、チャランポランな事この上ないし、心も身体も、毎日がそんな日常だったらすぐにパンクしてしまうようなキャパしか持ち合わせていません。だけど、考え方や知が、見通す世界を広げるし、前へ進む栄養となることを実感していることは間違いないのです。

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折り返し点は素通りでよいのか

アラフォに差し掛かった人が、ふと気がつくと、自分は体裁を気にしすぎて視野も狭く、ぬるま湯に浸かっており、引き出しが少ない人間になってしまったのではないか、このまま小さく終わってしまうのではないか・・・。と悩みを書き込んでいます。自分も含め、多くの同世代が一度は考えるであろう大きなテーマを、どう考えましょうか。


そこに気が付いた、ということが重要だと思います。確かに思い立ったからといって直ぐに変われるわけではないと思いますし、こういうことはたどり着く到達点があるわけでもなく、また目に見える形があるわけでもないので、捉えること自体が難しいのですが、とにかくそこへ意識を持ってこれたことが意義深い事なのです。
失礼ながら、無難や中庸が美徳であり、波風なく順風満帆であることは、ある意味では幸せな道を歩んで来ることを可能にしていたと思います。例えば私たちの年代では、大学を受験する際には、とにかく経済を学んでおけばその先安心だからと言われ、大概の者は疑うことなくその方向に歩みだしました。自由競争社会の中で、特別に野心を燃やすことはレアケースですらあり、何となくわざわざ危険を冒さずとも、といったような風潮があったと思います。しかし今思えば、そのことを吹き込んだ私たちの親世代は、それ以上に人生に何かがある、といったようなことを私たちに教えてくれたわけではないのです。
これに気がついたとき、例えば自分が凡人であるから、と諦めることは人生を無駄にすることと同じです。要は、この先が重要なのです。
今、私自身も、ようやく哲学の本を読んだり、積極的に勉強するようになりました。そうすると、人間は、どこかある場所へたどり着くことを目指して生きるのではなく、本来が、生きる意味を考えざるを得ない存在であったり、この世の中が何であるのか、説明したくなる存在であるということがわかるのです。これは極端な話であるとしても、例えば、若い頃から目指してきた職業に就くことができたとしても、人生がそれでハッピーエンドとなって終わるわけではありません。また、自分が何であるのか、自分の生にどういう意味があるのかという問いは、就職先が教えてくれるわけではないのです。
私はあなたに、具体的にじゃあどうすればいい、と言う事はできません。なぜなら、どうすればいいのかを言い尽くすことが不可能だからです。つまり、何だって出来るということです。裏を返せば、「こうでなければならない」と思い込むことがあなたの言う「狭量」に繋がる。
人生は続いていきます。しかし、それは永遠ではない。その中で、あなたや私は、世界の全てを知ったり、この世の中が何であるのか説明し尽せるほどの存在になれるでしょうか。なれないと思います。世界は広すぎて、その営みは膨大だからです。じゃあ、もう程々でいい、と思いますか?それこそ「ぬるま湯」ですよね。どこまで押し進むのかは、全く個人の裁量です。だとすれば、できる限り知ったり探ったりすることこそ、自分の生にとって意義のあることだと思うのです。


・・・わかったようなことを書くことはできても、自分が何を成し得たと威張れるようなことは何一つあるわけではありません。だけど、自分なりに、自らの生を確かに歩んでいるという確信や、これから進んでいくべき方向について意識的になれているかどうか、その考えを導き出す方法とは何か、こういうことについて知ることと知らないままでいることの差は、確実にあるんだと思っています。

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