難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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折り返し点は素通りでよいのか

アラフォに差し掛かった人が、ふと気がつくと、自分は体裁を気にしすぎて視野も狭く、ぬるま湯に浸かっており、引き出しが少ない人間になってしまったのではないか、このまま小さく終わってしまうのではないか・・・。と悩みを書き込んでいます。自分も含め、多くの同世代が一度は考えるであろう大きなテーマを、どう考えましょうか。


そこに気が付いた、ということが重要だと思います。確かに思い立ったからといって直ぐに変われるわけではないと思いますし、こういうことはたどり着く到達点があるわけでもなく、また目に見える形があるわけでもないので、捉えること自体が難しいのですが、とにかくそこへ意識を持ってこれたことが意義深い事なのです。
失礼ながら、無難や中庸が美徳であり、波風なく順風満帆であることは、ある意味では幸せな道を歩んで来ることを可能にしていたと思います。例えば私たちの年代では、大学を受験する際には、とにかく経済を学んでおけばその先安心だからと言われ、大概の者は疑うことなくその方向に歩みだしました。自由競争社会の中で、特別に野心を燃やすことはレアケースですらあり、何となくわざわざ危険を冒さずとも、といったような風潮があったと思います。しかし今思えば、そのことを吹き込んだ私たちの親世代は、それ以上に人生に何かがある、といったようなことを私たちに教えてくれたわけではないのです。
これに気がついたとき、例えば自分が凡人であるから、と諦めることは人生を無駄にすることと同じです。要は、この先が重要なのです。
今、私自身も、ようやく哲学の本を読んだり、積極的に勉強するようになりました。そうすると、人間は、どこかある場所へたどり着くことを目指して生きるのではなく、本来が、生きる意味を考えざるを得ない存在であったり、この世の中が何であるのか、説明したくなる存在であるということがわかるのです。これは極端な話であるとしても、例えば、若い頃から目指してきた職業に就くことができたとしても、人生がそれでハッピーエンドとなって終わるわけではありません。また、自分が何であるのか、自分の生にどういう意味があるのかという問いは、就職先が教えてくれるわけではないのです。
私はあなたに、具体的にじゃあどうすればいい、と言う事はできません。なぜなら、どうすればいいのかを言い尽くすことが不可能だからです。つまり、何だって出来るということです。裏を返せば、「こうでなければならない」と思い込むことがあなたの言う「狭量」に繋がる。
人生は続いていきます。しかし、それは永遠ではない。その中で、あなたや私は、世界の全てを知ったり、この世の中が何であるのか説明し尽せるほどの存在になれるでしょうか。なれないと思います。世界は広すぎて、その営みは膨大だからです。じゃあ、もう程々でいい、と思いますか?それこそ「ぬるま湯」ですよね。どこまで押し進むのかは、全く個人の裁量です。だとすれば、できる限り知ったり探ったりすることこそ、自分の生にとって意義のあることだと思うのです。


・・・わかったようなことを書くことはできても、自分が何を成し得たと威張れるようなことは何一つあるわけではありません。だけど、自分なりに、自らの生を確かに歩んでいるという確信や、これから進んでいくべき方向について意識的になれているかどうか、その考えを導き出す方法とは何か、こういうことについて知ることと知らないままでいることの差は、確実にあるんだと思っています。

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