難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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「カヨウボサノバ」について
 少し暖かくなると、僕はボサノヴァを聴きながらアイスラテを飲んでリラックスしたくなります。今日は時間があったのでネット上を色々検索していたら、久しぶりに衝撃的な曲に出会いました。ここ何年か、本場ブラジルではなく、ヨーロッパラテン系のものでもなく、ニッポンの、いわゆる昭和歌謡曲の中にも名曲があることを知って、収集はしていたのですが、僕らが生まれる直前には、何というか健全な音楽が生まれる土壌というものがあって、一つの世界、文化が成立していたんだなと羨ましく思うのです。メロディも編曲も歌詞も歌唱も、ちょっとすごくないですか?



 何年か前には、やはりこの手を好むマニアがいるのか、J-Bossaなるコンピも出ていました。僕も架空にコンピを編集したとして、ライナーっぽいものをを書いてみました。ご同輩なら頷けるのではと思いますが、どうでしょう。

 一言で言えば、このCDに集められたのは、古い歌謡曲だ。しかし、何故このCDが出来上がったのかについては、やはり動機というものがあるのであって、このCDを受け取り、聴こうとする人にとっては、星の数ほどある歌謡曲の中からこれらが選ばれた理由について、知らされておいても良いという権利がある。先入観が与えられない範囲において。
 歌謡曲とは何か。大衆音楽だ。大衆音楽とは何か。出来るだけ多くの人々の共感を呼び、多くの人間が快いと感じる事が出来る、普遍性のある娯楽だ。僕は旧来こうしたものについては掘り下げの対象とはしていなかった。説明過多であるし、表層的であるし、音楽の本質的な価値から離れて、商業的な価値としての側面がまずもって重要視されることについて、純粋な芸術に触れる喜びに資する可能性を感じていなかったからだ。
 しかしもっと大きな視点で見渡せば、少なくともアナログレコードとして発売されていた時代のこれら歌謡曲は、音楽が人々の間の共有物として扱われていた時代の産物なのであり、今のモノのようにあくまで個人的消費行為に迎合した使い捨て音楽とは全く違うのだ。実際、どのトラックを聴いても、多くの人間が係わり合い、手垢にまみれる中で産み出されているモノであることは直ぐに分かるのであり、どの曲も未来永劫、歌い続けられ、愛される事を究極的な目標にしていて、昨今のように人知れずダウンロードされ、一銭の貨幣も産み出さないうちに個人的な理由によってデリートされることなど想定の中には無いものばかりなのだ。確かに、ブラジル音楽がアメリカに渡って、それの模倣であり、言ってみればコピーのコピーに過ぎないのかも知れない。しかし、サウダーヂといわれるブラジル独特の気分や気概のこの国なりの解釈が、楽曲に新鮮で芳醇な風合いをもたらし、それが多くの人の健全な快さを運んでいた、この営み自体が、いま僕の興味を惹きつけてやまない。
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