難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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運命とはなにか

過去の自分の記述を漁っていたら、「運命とは変えられるものか、決っているものか」という質問に答えている文章が見つかりました。


運命というのは天命というか、予め定められた決定論なのではない。なぜならこの世の中は、一人一人が個別に持っている価値基準の意識、各人がどう考えているかという「考え」の寄せ集めで動いている場所なのです。人間が動物と異なるのは、身体の中に意識や価値基準を持っており、これを他者とぶつけ合うことでルール(=社会)を作っている面です。ですから、動物のように身体に奉仕するために例外なく同じ行動を繰り返すことはないのです。また、人間が個別に持っている価値基準は変動するものですから、当然、世の中の価値基準も常に移り変わることになります。そうはいっても自分は何も変わってないというかも知れませんが、今この文章を読んだあなたと、読む前のあなたが同じだとはいえないはずです。
そこで運命ですが、こうした世の中の織り成す綾の上にしか、運命もまた存在しません。ということは、運命それ自体も、動かない決定を持って現れるのではなく、様々な形でやってくるといえます。こう考えると運命は何も、「都合の良い事実」を指すものではなく、「都合の悪い事件」を指すものではない。つまり、予め決められた事というのは何もないのです。
結論としては、運命は、自分の意識だけで決定できるほど自由なものではなく、また、自分と全く関係のないどこかで決定されるほど届かない存在ではない。ということが言えるのではないでしょうか。
ただ、これが事実だとすると、運命についてロマンを含めた期待感を持っているような人にとっては、夢のない話になってしまい、逆に独我論的な理念を支えとしている人には邪魔な主張ということになります。恐らく、本を読んでどちらの考え方もあるというのは、こうしたことが原因なのでしょう。
本来なら、そのどちらかである、と結論付けられればスッキリするのでしょうが、残念ながらこの2つの考え方はその何れもが、あなたもおっしゃるように「考え方次第」、つまり、希望的推測ということになります。


・・・何か自分の思い描きどおりではない事項を、渋々納得して飲み込まなければならないとき、「仕方ない、これも運命だ。」等と言ったりします。コレは何も、予め決定付けられていたことを承諾しているのではない。過去と未来に亘り、様々な可能性や形の変容があることも理解しながら、たまたま自分にとっては思い描く形とはならなかったが、別な形に他者との折り合いを見つけ、それに従うことがより善いと判断する。つまり、一歩譲ることに意義を見出し、そこに自分自身で背中を押して進み行くために、あえて決定論であると思い込ませる。そういう行為だと思います。

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