難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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大人として何を見出すべきか

僕も”気がつけば”いい大人です。この”気がつけば”というのは何とも残酷ですね。つまり気がついていない時に様々な可能性は過ぎ去っていて、二度と取り戻すことはできないわけですから・・・。

いや、しかし気を取り直して、今回は、「アラフォになって、自分はこれでいいのか、人としてあるべき姿があるのに、未だにどうしていいかわからない。人は人、自分は自分という世の中に甘えていた・・・。」そういう悩みに対して僕が考えたものを紹介してみます。


「人とはどうあるべきか」このような問いに対する究極の人間像が絶対的にあるとすれば、今の世の中のこの多様性とは一体何なのでしょうか。また、絶対的な存在というものを、一体誰が「こういうものだ」と言い得る権利を持っているのでしょうか。要するに、この世の中で、「こうでなければならない」というのが既にあると思う事は間違いなのです。しかし、だからといって、無軌道、無規範な世の中というものも、人間は認める事ができません。となると、そこにあるのは、人々の間にある価値の共有なのです。個々に違う多くの価値観が、ある一つの「善い」を共有、共感したとき、それが常識とか、ルールの中味となるのです。赤裸々なことを言ってしまえば、世の中のどこに、自分のことを横に置いておいて、優先的に人を助けようとすることのみに生きる人がいるでしょうか。「人と人とは助け合って生きていて」と言いますが、助け合うこと自体が個人の本来的な目的なのではありません。しかしなぜあなたに人間同士が助け合うことが「常識」であると思わせるのか。それは上述からすれば人間がそれぞれ持つ自我を認め合わなければ生きられないからなのです。あなたが年齢を重ねる事で、昔と比べて自分の内実が見えるようになったのは、つまりは自我のほんとうに求める事について自分で意識できるようになったからです。人間の内面の成長とは、身体機能的な部分のそれとは違って、自分の中のネガティブな部分に気が付く面もあると思います。しかし、そのことは何も後退ではない。より世界観が拡張していくうちの一部だということに過ぎません。まずいと思うのは、あなたがそのネガティブな感情に気が付いたとき、それが直ちにいけないことと位置づけて、漠然と身に着けてしまった既成概念にあてはめ、ようやく気が付いた自我を閉ざしてしまうことです。あなたも指摘しているように、「人は人、自分は自分」という考え方は、人間の、特に内面の成長に対して、何も答えを用意していません。今の世の中は確かに自由主義で、どんな考え方で人生を歩む事もできます。しかし、それを笠に着て、「人は人、自分は自分」を振りかざしていては、自分の人生とは何か、世の中とは何か、なぜ自分は生きているのかといった根源的な問いに触れる事はできないでしょう。恐らくあなたの周りの人なら言いそうですが、そんなもの考える必要がないと思うならそれでもよろしい。そういう人にはそれなりの人生があるでしょう。しかし人間には本来、「それなり」で善しとはしない自我の本性があるのです。私はそこに、人生の階段を登る要素があると思っています。そういう漠然とした問いを、漠然としたまま一生を終えるのか、確信に変えて歩むのかでは、数段違うと思うのです。


・・・私たちアラフォ世代は、世の中が急速に便利になって、合理的な生活があたりまえになるのをつぶさに観察してきたと思います。ということは、考える事もできる。合理的に生活することが、人間の間にある何か重要なものをすっ飛ばしても良い。ということになるのかどうかを。

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