難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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信用とはなにか(他人は信用足り得るのか2)

ある人は、自分の伴侶でさえ信用できない。つい、見えないところで自分の知らない何かをしている気がする。疑ってしまうのは、自分に原因があるのか・・・信じることは、なぜこんなに難しいのか。と悩みます。

これについて、考えてみました。


他人のことを信じる・・・良く使われる言葉ですが、考えれば考えるほど、なかなか腑に落ちません。
これは、「信じる」という言葉自体に、暗黙のうちに「こうでないと信じていることにならない」という概念が生じているからなのです。言葉として発せられたその瞬間に、すでに「信じるとはこういうものだ」という目に見えない幻想が含まれている。そうでありながらも実際に、自分と他人の「信じる」を比べてみれば、こうでなければならないと思っているものとは微妙に差異がある。好きな人や家族でさえも。これが腑に落ちない原因なのです。
人間は誰でも、唯一つの正しさに従って言動するのではないのです。原理的なことをいえば、個々の人間は全くバラバラで、思い描くことはマチマチです。もし、ある正しさが絶対的なものとして初めから存在しているのなら、それは人間を超えたところに、人間の上の存在として前置きする必要があるのです。神様とか宗教は、これを利用するのです。信じることは盲目と言われますが、原理としてバラバラな状態を一つの正しさに従わせようと言うのですから、盲目となるのは「信じる」ことの条件とも言えるわけです。本来、あっちを見るのも、これを気に入ることも自由なわけですから、そういったものに制約や禁止を後付けして、抑止し、目をつぶらなければ信仰というのは成立しないのです。
さて、そうではあっても、自分の周りに日常居合わせる人や、あなたの言う「好きな人」に対しては、「信じる」ことが欠かせないような気がします。これは当然のことです。あなたも含めて、日常顔を合わせる人にとっては、日々の生活を送るにおいて、共有する事項が沢山あるからです。例えば、一緒に過ごす時間です。みんなの自我は、一人ずつ思い描く「快さ」や「善い」を求めています。しかし、時間を共有しながら「快さ」や「善い」を見出そうとするなら、バラバラなものでは成り立たないのです。
結論ですが、「信じる」ことは、普遍的な唯一つの形を持っているわけではない。好きな人にさえも、一個の既成の「信じる」を外すな、とは言えないのです。身も蓋もないことを言ってしまえば、原理的には誰でも自分ぐらいしか自分の「信じる」を展開できません。しかし、「好きな人」や「大切に思う人」には、お互いに汲み取らなければならない必然があるのです。言ってみれば、既にある「信じる」をあてはめるのではなく、その関係性にフィットする共有項を見出して、育てていくこと、これが信用や信頼に繋がっていくものなのです。


・・・以前、信用をテーマに記事を書いたときは、「他人を信用することが危ういものなら、あえて消極的に構えよう」とする人に対して、可能性を閉ざすような姿勢では信用も何も訪れない、といったような話にしていたと思います。今回は同じ信用でも、成立している(と幻想する)ものをどこまで疑うのか、それに起因する悩みだったと思います。

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