難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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自分を磨くとはどういうことか

自己啓発とか、自分探し、このような言葉が飛び交っています。一体これらは何なのでしょうか。ある人は、一念発起して、「今日から~~しよう。」と具体的な実践を試みるのですが、なぜか成果は見えず、続かない。周りを見渡せば、色々なことに着手し、活き活きと生活している様を見る。どうして自分はこうなのか。

このような悩みに、僕も考えてみました。


「自分を磨く為の行動」を起こす動機が何であるのか、考えた事がありますか?
もっと言えば、「自分を磨く」とはどういうことなんでしょう。なぜ、自分を磨かなければならないのでしょうか?
ここで言う動機というのは、大きく2つあるのだと思います。一つは、自らの自我の惹きつけられに従う、つまり、明確な「こうでありたい」という自分自身の未来像に確信があり、そのために行動を起こす。もう一つは、自身の未来像については漠然としたものしか持ち合わせないが、周りの雰囲気が、何と無く自分にこうあれと要請しているような気がして、行動せざるにはいられない状況に追い込まれている。
人間は、誰でも自我の中に今よりも、より良い、よりほんとうの、より美しい自分というものを想定しています。また、このことがなければ生きられません。そして、人間の最終的な恐怖とは、死と他者の目です。これから逃れ、一方では自分の自我の求める惹きつけられによって、日々の生活を送るのです。ただし、他者と自分の自我の有り様は、大筋では一致していても、持てる立場や状況を作り出している以上は、微妙な差分が生じているので、何かを成そうと思う人にとっては、日々の小さな挫折は付き物です。これを怖がり、また、面倒だとして避けることは、即ちこれは怠慢なのですが、自我は自分を守るためにこの怠慢というものに小さな安楽を用意しているのです。確かに、面倒なことを避けていれば楽になるでしょう。そのこと自体は悪いことではないにしても、恐ろしいことにそれは自分の初心というものを忘れさせます。何も躍起にならなくても、現状で充分、何が悪いのか?といった感覚です。しかし、これでは自分を磨くどころか、現状維持も危ういですね。
「自分を磨く」という行動は、言葉にしてしまうと生きる上での必修事項のような印象を与えるのですが、本質的にはそれをするかしないかさえも、個々人の裁量に任されているものです。つまり、するしないは自由に選択できますし、どこまでやるかについても規定が設けられているわけでもありません。だから、漠然としてしまうのです。
こうしなければ、或は、こうでなければならない、という話ではない
のです。そう考えて既成のカテゴリに節操無く手を伸ばし始めるよりも、真に自分が惹きつけられているものは何なのか、それにより近い、自分自身に出来るものは何があるのか、そのような考え方をしてみたらどうでしょうか?


・・・日常において、与えられている時間は万人に平等のはずです。しかし、より能動的な感性と、単なる安楽至上主義の受動的態度では、何にお金を使うかということと同じぐらい、時間の使い方は変わってくるでしょう。僕自身は、自己啓発、或は自分探しというのは、もうスタートの時点ですでにそれは、自分自身の問題とは言えない行為になってしまうと思うのです。誰かが用意したプログラムである以上は、それに倣っても、所詮それは契約とでもいうべきものであり、必ず見合う合理性が求められる。本質的な生の充足は、そんなものに求めてもやって来ないのではないか。結果を求めるあまりに、合理や利便に走ってしまう。実は、こういう事とは対極のところに、磨かれた自分というものが出来上がるのではないか。そう思います。

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