難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
謙虚に振舞うのは損なことか

ある若者が、大きな病気をしました。しかし、見事に打ち勝って、今、生きる希望に燃えていると言います。そんな人でも、引っかかっている事がある。「自分は今まで、世の中に遠慮して生きてきたのではないか?人に迷惑さえかけなければ、どう振舞ったっていいのでは?人目を気にするこんな自分や、お仕着せの美徳、こんなものは打破したい。昔の武士のように、我が人生悔いなしと言うことができるためには、謙虚さなど邪魔なものだ・・・この考え方でいいのでしょうか?」若者らしい勇ましさです。このことについて考えてみました。


しかし、「わが人生に悔いなし」と言っているその武士はまた、「武士は食わねど高楊枝」などと言ったりもします。つまりこれは、謙虚さが自らの人間性を大きくする事実も現しているのではないでしょうか。
あなたは、大病を克服され、生きる希望に燃えている。このことは、何にも替え難い喜びです。「自分に正直に生きる」これも結構なことです。そのモチベーションを羨ましくさえ思います。
しかし、我慢や忍耐、或は謙虚さが、自分に正直に生きることへの足枷になるという考え方は、どうなんでしょうか。もう一つ気になるのは、「人に迷惑さえかけなければ・・・」という考え方なのですが、現実にはこの考え方自体が人格形成に悪影響を及ぼすものだという認識はあるでしょうか?子どもを教育する立場である親世代のエゴや短絡が優先するあまり、このことを拡大解釈して、人間一人が生きていくことそのものは、他者に何らかの「関係性」を持ち続けること(=迷惑)という実感から子どもを遠ざけてしまっています。結果、他人との距離感がつかめない20代、30代の人間が、社会問題を引き起こしています。
このことから言えば、我慢や忍耐もまた、他者との関係性において必要なスキルであると言えます。それはなにも、自分が身を引くということだけを指すのではありません。他人が忍耐や我慢を強いられている場面だってある。このことを理解しなければなりません。こうしたことが相互に行われる、つまり、自我同士の了解のし合いこそが世の中なのであり、他者との関係性こそが、自分の生きていることそのものだと言えるのです。
したがって、「謙虚さ」は自己主張を取り下げる代償として美化されるようなものではありません。ましてや、「打破」などということも「謙虚さ」には沿わないものです。自我が本質的に、ほんとう、よいもの、美しいものへ向かう意識であり、自我同士の織り成すものが社会であるなら、謙虚さは他人や自分を了解するための必須の道具と言えるでしょう。
あなたのいう「運」や「ツイテイる」、そして「幸せ」さえも、自分だけで成すのでは決してない、あなたの求めるほんとうや、良いもの、美しいものの観念は、他者がいるからこそ、あなたにそれを認識させるのです。


・・・生きるパワーに満ち溢れるというのは羨ましいことですね。しかしコントロールも必要だなあ。間違って欲しくないこともある。センスですよね。

スポンサーサイト
コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。