難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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震えるハートは誰が運ぶのか

愛の告白の日は過ぎてしまいましたが、恋の悩みは至るところに存在しています。ある人は、好きになった人に自分の気持ちを伝えたいが、どうしても切り出す勇気が無く、占い師に鑑定してもらったところ、「縁が無いからあきらめよ」という言葉をもらい、意気消沈。このことをキッカケに、縁や運命とは何か、占いってなんだろう、という疑問が出てきたといいます。


ときめく時期ですね。お気持ちはお察しします。
私は、「縁」というのは「運命」とほとんど意味的には同じだと思いますね。よく、理想の結婚をして、幸せの只中にいる人に話を聴くと、「人間には、この人が自分にとって特別な存在だと思う時がある。これは縁というものなにものでもない。」「自分にとって夫(あるいは妻)は特別な存在。運命がこれを出会わせた。」というコメントに出会いますが、これは気持ちとしてはすごく良くわかる話なのですが、原理的なことを言うと、これはどちらのコメントも、お互いが出会って、それぞれの人間が持つ自我の奥底までを認め合うことが出来る関係になったのだということになります。
これは何も、前提として「縁」や「運命」があったのではない。むしろ、お互いの自我が認め合われたその時に、「縁」や「運命」という言葉のイメージが、これを説明するのに一番納得のいくものだという認識に「成っていく」のです。複雑な人間の自我は、それぞれの人間がそれぞれの形の自我を持っているだけに、なかなか、お互いの奥底までを見通すことができない。しかし、それでも自我を認め合う事こそが、人間が生きることそのものなのです。そこにかけがえのなさを感じても、不思議ではありません。
あなたは、自分自身でも占いの言葉や鑑定士の言葉を「情けない」ものだとし、また、自己の自我が弱いものだという直観もあるわけですが、お察しのとおり、占いや鑑定には、原理的な根拠や説明は存在しません。それはむしろ、あなたの恋そのものを、言ってみれば物語化するためのアイテムに過ぎないのです。占いや鑑定の結果を肯定的に捉えることで、あと一押しの背中を押す材料にすることもできれば、思いとどまらせる材料にすることもでき、また、結果がどちらになるにせよ、それをドラマチックなものに演出することもできれば、悲観、絶望するときの原因に持っていくこともできるのです。
要するに、恋の大きさに負けないために、自分に対して持つ「勇気」と成り得るものだといえますが、結果を左右する直接的な働きというものは、全く持っていないということだと思います。
あなたの恋が単なる「玉砕」にならないような方法が一つだけあります。それは、「想いを伝える」だけでなく、あなたのほんとうを、自我の奥底を、相手に知ってもらうように方法を考えるということです。認め合う事ができたなら、それは「縁」や「運命」と呼ぶに相応しいものでしょうが、覚悟のいる話ですね。


・・・こういう話になると、つくづく自分の回答は面白くないですね。つまり、恋愛に原理的な要素を持ち込むことは夢の無い話になってしまうということです。恋に必要なものが純粋さや可愛らしさであるならば、占い師の言葉を素直に聞けることのほうが余程健全かも知れません。

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