難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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自分の考えはこれでいいのか(正しいとはなにか)

人の世の中は複雑で広く、いろんな考え方の人がいて、自分一人ではとても全てを知ることはできません。そんな中で、ある人は、「自分の価値観を確立することが怖い」と言います。なぜなら、「この世には正しいことなんてほとんどなく、自分のちっぽけな考え方を信じ通すことは危険だから」といい、悩んでいました。でも一方では、「そんなことでは一人前にやっていけない。とりとめのないことだ・・・」とも感じておられます。さて、どう考えればいいのでしょうか。


「とりとめのない質問」に対して、とりとめのない回答をしてみます。
あなたが人生を歩み、「正しいことなんてほとんどない」という直観を引き出しました。しかし、その思考そのものが、結果的には「正しいことなんてほとんどない」というあなたにとっての「正しいこと」になってしまっているのです。「正しいこと」の存在を否定することが一方では「正しいこと」の存在を是認するのです。
あなたの疑問の切り口や、こうした着眼を持つことについては素晴らしいことだと思います。しかし、「人間の本質」に触れようとするのなら、「何が正しいのか」「何が間違った価値観なのか」という観念を、既に実存するものと前提して思考していては確信には至らないでしょう。先のとりとめない回答のように、何かが「正しい」「正しくない」ということ自体が、既に人間の価値基準の一部を取り出しているに過ぎないからです。
人間の主体、つまり人間が能動的な運動を起こす原理は、身体的な欲求のみにあるのではありません。あなたは、お腹がすいていても、充分に睡眠をとっていても、それでもなお、今より次の瞬間を「善いもの」にしようとして日々暮らしているはずです。自我というのは「善い」「ほんとう」「美しい」に惹きつけられることが本性です。この本性に従って生きるには、実現に向けて可能性をめがけなければなりません。これが人間の本質です。また、この個々の人間が、「善い」や「ほんとう」を認識するのは、他者の自我との承認関係の上にだけ実現することなのです。価値基準のやり取り、受け渡しが行われない、全くの一人の世界では、「善い」や「ほんとう」を認識する動機や必然が持てないからです。
確かにあなたが言うように、世の中には沢山の「価値観」で溢れています。しかし原理としては、どのような「価値観」でも、それが初めから人を超えたところに超越的に存在しているのではないのです。先の自我の本性から言えば、ある価値観がそこにあるように見えるためには、多くの価値基準がそれを「善い」と認め合っている、それに支えられている必要があるのです。


・・・日本は今、自然の巻き起こした未曾有の力と戦っています。復興と言うのは、ただ単にもとの姿に戻ることではない。人々は、誰が何を言うわけでもないのに、自然により善い世界を作るために活動するでしょう。それは丁度先に述べたように、一人ひとりの自我が善を目掛け、それが大きな束となって可能性の姿を形作ることと同じです。もし仮に、ある価値観が絶対的で、ある正しさが予め決められた世界であるなら、一人ひとりの持つ善や価値観は、意味をなさないものとなるどころか、持つべき動機や気概さえ失い、被災地が復興を遂げることはできないはずです。

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