難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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西風と太陽(オキナワ03)
測量法の発見は、世界を均質化したという。つまり、古代の封建的絶対階級制度の世の中では、庶民の生活の場と、貴族階級以上のそれは、現代に生きる僕たちが想像できる常識をはるかに超えて、完全に隔てられた別世界として広がり、物理的にも精神的にも相容れることはなかった。そこへ、モノの長さや重さをある一定のモノサシで表しうるという常識が出現すると、たとえ明日をも知れぬその日暮しの貧民であっても、何でも思ったとおり実現できる王様であっても、手に持ったリンゴの直径や重さは、言ってみれば同じものであるということになったのだ。
実質的に窺い知ることも出来ない向こう側の世界が、実は自分の身の回りと変わらない世界として認識し得ることができる。もちろん今では当たり前の話だし、増してや情報化された世の中だから、どんな人間でも、それが当たり前として「知っていること」が圧倒的に多い世界なのだ。たとえ僕が南国の情緒溢れるリゾートホテルのロビーで、場違いなライダーズジャケットやレザーパンツを着込んで肩身を狭くしてレンタルバイク屋の送迎を待っていたとしても、「それはそれ」で片付いてしまう。

$つぶやき以上虚言症未満-hiro01

一方で、僕としては測量法の恩恵を受けた生活をしている。道路地図。確かに均質化や合理化は、世界に見知らぬ何かが待っているといったようなロマンの膨らみとは対極にあるようなものだ。メートルやキログラムが世界を小さなものにしたのなら、そこに沢山の情報を盛り込んだ道路地図などというものは、夢やロマンをお守りのように大切にする性分からすれば、何とも歪で、無粋なものとして位置づけられるだろう。だけど僕は、道路地図を片時も離さない。もう数十年も家のトイレにはロードマップが常備されているし、古くなったと思ったら更新する。PCを開ければ、必ずグー○ルマップにアクセスする。でもこれは、王様と貧民が同じ世界に住んでいる事を確認しているわけでもなく、特定の異性をストーキングするためでもなく、もっとれっきとした、切実な能動によって行われている事だ。

$つぶやき以上虚言症未満-hiro02

人は誰でも、知っている事や知り得た事だけで生きているわけではない。だけどこの自由な競争を生きる中で、より知っていることが多いほうが得をするような気がして、また、そうでなければ情報の回転寿司はどんどん流れていってしまい、なにも得られずに空腹を満たせないような気がして、多くはそこへ手を伸ばす事に精一杯になる。しかし人間は、そのようにして得られる知とか情報に対して、必ず自分を対比させたり、居場所を与えるような視点を持ちながら生きている。カラッポの入れ物に、どんどん詰め込んでいるだけではなくて、絶えず自分という存在にそれらをぶつけているのだ。
では、均質化や合理化、過剰な情報の波に流されずに、自分を支えてくれるものとはなんだろうか。それは物語だ。道路地図を見て、そこから情報を読み取ることは誰にでもできる。だけど、得られたものを自らの感覚と統合して街や街道の風景を思い描いたり、地名や地形から現地の人々の暮らしぶりを想像するのは、完全に自我の能動の領域なのだ。僕は、地図を見て読み取りながらロマンを付加する。すなわちこれは、マップ上の物語の製作なのだ。そしてまさに、このことのために地図を持つし、バイクでトレースするのは、完成した物語の試写会なのだ。(つづく)

$つぶやき以上虚言症未満-hiro03
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