難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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郷愁とはなにか

生まれ住んだ街が、どんどん開発が進み、便利になっていく様を見て、一方で自然の姿が失われていくことに抵抗を感じている人がいました。今時珍しく地元を愛していて、人々の暮らしが近代化することに喜びを感じているのに、やっぱり自分は子どもの頃に自然の中で育った思い出が沢山あり、自然こそが自分を支えている実感がある。元の自然豊かな風景が損なわれるのはいやだと思う気持ちがある。これをどう考えたらよいかという質問でした。


繊細なあなたの感受性に、人の心としてのかけがえのなさを感じずにはいられません。ですが、郷愁を持つということと街のあるべき形、環境保全の理想というのは、あなたが感じているもの以外にも、いろいろな形があると思います。例えば私自身は、子どもの頃に引越しを経験していますが、自然の多い少ないで言えば今現在住んでいるところのほうが自然は豊かで、四季の移ろいや、あなたも感じる香りも、今のほうが沢山享受できる環境にあります。しかし、だからといって、私の感じる郷愁というのは、コンクリートジャングルや都市の鬱屈に苛まれていて乏しいかというと、そうでもないのです。具体的に言うなら、幼少の頃に見た駅周辺の何本もの並列に並ぶ線路や、美化とは程遠いドブ川のニオイ、密集した住宅地の狭い路地、こうしたものでさえ、私にとっては思い出せば胸がギュっとなるような感覚をもたらす。これを郷愁と呼んでもおかしくはないと思います。
つまり、郷愁(の大小)というのは、人にとって自然環境がもたらすものだけのことを指すものではない。それは、自我が芽生え、人格が形成される多感な時期を過ごしたその時間に対する記憶や、人間が誰でも持っている自分という存在に対する愛情、こういったものがあって、今の自分が形作られているのだという、いってみれば自分を下支えする確信のようなものが、ある面では過去の記憶を美化しながら存在していることによって出てくるのではないかと思うのです。
人間が利便性を優先するあまり、自然環境が犠牲になっていく。このこと自体はもう過去から「善くない事である」という世の中の共通理解があります。そうした中で、それでも人間は生きていかなければならない。また、個人の郷愁がつぶさに守られるべきもので、形を変えてはいけないものであるなら、善くも悪くもこの社会は進み行きしない。こうしたものの上に立って、可能性に向かうことが未来なのだと思います。


・・・確かに特定の個人が私欲に溺れて大規模な乱開発を行うとロクなことにはならない。こうした例は沢山ありました。だけど街のあるべき姿が個人の思い出や郷愁の中に閉じ込められているという考え方も、未来を向いているものとは言えないと思います。

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