難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
魂の重さはどのぐらいか

普段生活していて、自分は仕事や学校、住んでいる地域等、様々な単位で人間関係があって、その中で暮らしている。しかし一方で、構成しているそれぞれの人には個別の人生があって、それぞれの暮らしがある。そのようなことを考えると、世の中では、自分の生というのは単に歯車の一つにしか過ぎないのではないか、一人の人間の生の重みというのは、世の中の人はどのように捉えているのか、すごく気になった、と質問している人がいました。


今の40歳前後以降の若い世代というのは、日本が高度経済成長を遂げて、国民全体が物質的には豊かさを享受できる時代に育った人が多いと思います。実際、自分もその中の一人なのですが、今思えば、我々より以前の日本というのは、世の中の暗黙、ひいては生活の不便さを補い合う必然として、何かしら人々が一体となって目掛ける目標があり、結果的にそれが心の共有や、公の概念を個々に植えつけ持つことに繋がっていたのではないか。しかし、高度経済成長や物質面の安定は、人々からそういう部分を遠ざけ、あなたが言う「個人」とか「個」の存在にばかり目を向けさせることになった。そのように感じるのです。学校では、個性を伸ばす教育などということも言われていました。
いま、「自分色」とか「わたし的」とか、「プライバシー意識の高まり」とか、そのような言葉と同時に、孤独死とか、無縁社会などの社会問題が起こる世の中となって、これらのことが無関係であると思えません。
私の考えを言えば、そもそも個人というのは個別の性や自我を持っているのであり、あなたが言うようにそれを世間が大切にするとか、ましてや学校教育において「伸ばしていく」ようなものではないと思うのです。むしろ大事にしなければいけないのは、あなたも私も、彼も彼女も異なるその「個」について、認め合ったり、共有したりできる社会を築くことなのです。私達は、何時の頃からかそのことを忘れ、自らがどう違うのか、その差異を見つけることばかりに時間や労力を費やし、価値を置くようになってしまいました。しかし、そもそもお互いが認められあうような世の中でなければ、個別の人生も意味をなさないのです。
あなたの問いは、こうした世の中の変容に対する、一つの危機感が問わせたのではないかと思うのです。


・・・便利で豊かな時代にあって、自由な社会に生きているという実感もありながら、なぜ私達は暗黙の内に予め組み込まれた歯車の一つに過ぎなくて、何か動かし難いものが存在しているという閉塞感を持つことになるのか。僕は一世代前にあったような、総中流意識、隣を見てウチも同じように、という時代は終わっていて、自由とか価値が不均衡になっているこの現実に意識的に対応するべき時代になっていると思うのですが、どうでしょうか。

スポンサーサイト
コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。