難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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「MY服」に思う。
おもてなしニッポンを標榜してはいても、赤ちゃんは捨てる、動物は虐待する、自らの顔に泥を塗るだけでなく、信頼関係それ自体をも冒涜するようなお話が出てくるなど、昨今、ロクなことがない世の中がさらに質を落としているような気がしています。
そんな中ではありますが、久しぶりにちょっと心が動いたことがありました。イヤな世の中だ、と投げ捨てるようなセリフを吐くことは容易いのですが、下記のような記事を見つけると、少し可能性を見出したような気がして、ちょっとヘンかも知れませんが心が温まりました。
つまりこれというのは、価値観の新しい側面をどんな人にも体感させ、具現化させる手段なんじゃないかということです。少し前までは、Tシャツ一枚に壱万円以上使うことが「いいこと」であり、服を着ることの前にブランドを着ることが優先されるような価値観があったと思います。だけど、もうそういうのは少しづつ違う形になりつつある。ユニ○ロの服は、古い人間からすると、安さ相当のモノの域を出る事はないと考えられているし、没個性の大量生産品にはどこに価値を見出していいのかわからない。こういうのが前時代的な価値観になろうとしている。少なくとも、そういう予兆が、この記事にはあるような気がします。
自分が着る服に自分自身で価値を付加し、それに愛着を持つことができるというのは、新鮮かつ幸せなことです。でも、よく考えてみればもっともっと昔の、古き良き時代といわれるような頃には、普通に行われていたことですね・・・。

http://news.mynavi.jp/news/2013/09/17/213/index.html

紫色の国
キャンプへ行くだけでは満たされないということで、何年かぶりに海外で夏休みを過ごしてきました。本当に偶然ですが、少し長い休みが取れたのです。
以前の自分のブログを読み返してみると、やはり夏には滑稽なぐらい日々の生活に追い立てられ、まさにそこから逃避するようにリゾート地へ出かけています。いろいろと思うところがあったのでしょう。割と丁寧にわけのわからない文章を書いています。
今回は、同様に南の島に癒しを求めて行くことになったのですが、ここ数年は我が家はアウトドア指向が高く、事前にラフティングだの、カヌーだの、動物だのと予約を入れて行ったため、総じて忙しいリゾートライフになってしまいました。何を思ったのか機中や或いはプールサイドでの読書三昧を期待して、前から読みたかった「悲しき熱帯」を上下巻とも持って行っていたのですが、まったく読む時間は・・・

lotus02

その代わり、現地の人との交流は、なかなか面白く温かく、不愉快な思いをしたことは一度もありませんでした。世界的に有名なリゾート地の贅沢な地域だという事もありますが、たおやかで、リラックスした空気がまず全体を包んでいて、日々の生活と比較して一番ギャップに思うのは、全てが「緩さ」の中でバランスできているということでした。

blueleafsea

これをしてはいけない、ここには立ち入らないでください、危険ですからこれはできません、そういうフレーズによって心が戦々恐々とするような、ささくれ立つような思いをしなくても、誰も侵すものはいないし、そのようなことに神経を費やすよりも、もっと美しいものを眺める時間が必要だし、それはどこの国の人であっても、この紫色の国の中では同じなのです。

lotus01

妻が何度か言いました。「日本の昭和40年代みたいな街だ」。スマホやタブレットも売っているけど、なにより懐かしいような風情がある要因は、物質的なものではなくて、社会全体の緩い空気に他ならないと思います。緩いのは確かに合理的ではないし、時間も費やすことかも知れないのですが、人の心の温かさというのは、夢を語る時間の多さや、その絵地図を広げるスペースの大きさ、社会の寛容さがもたらすものだと思います。

purplesea

旅行から帰ってみると、あのジ○リの宮崎さんが引退するということで、「この世は生きるに値する」を伝えるのが根幹だとおっしゃいました。しかもそれは幾世代にも亘って繰り返し置かれたテーマだと。しかし僕はこういう言い方は誤解を招くと思います。今の日本なら、生きるに値する世界は、どこかにあるから見つけよう、探そう、とする人が多いと思います。探さないといけないでしょうね。無いんですから。

紫色の国へ行けば分かるかも知れません。上品な紫色が、僕は好きになりました。
やっと始まる夏
またまた更新が滞り、自分のブログなのに広告記事が載ってしまう屈辱を二度も味わった。これはルールだし、商売で提供されているスペースだからと言われればそれまでだけど、ランダムに現れるこの広告記事の場違いな感じは、一体なんなのだろう?どんなに重いペナルティだって、それには相当の因果関係が納得を与えるものなのに、このデリカシーを欠いた、無軌道な感覚は、あまりにも度を超えていて笑ってしまうしかない。対極とか、彼岸とか、おおよそのアナログな言語では到底表現し切れない冷酷な現実が、仕事で疲れた四十男に追い打ちをかけている。自分はかつて世の中がデジタル化することを面白がり、そこで遊び、利用もしてきた。今だってそうだけど、一方で、もうこれ以上は違うんじゃないかと異議を唱え始めてもいる・・・。
やっとひと段落ついたんです。僕は夏の暑い感じが嫌いではないのです。その場に佇むと、現実から離れてどこか時空を超えて浮遊していってしまう、懐かしい記憶の何処かなのか、地面に濃く焼きついた自分の影の中なのか。とにかく夏がやっと始まった感じがしています。毎年のようにあのハープの旋律が聞こえてきます。暑いけど涼しいメロディです。リフレッシュのためにキャンプへ行ってきます。 

あなたでなければならない
ずいぶん更新をサボってしまいました。仕事のせいにはしたくないんですが、確かに余裕はありませんでした。年に数回ですが、僕にもそんなときがあります。

時間は止まりません。そして、いくら忙しくしていても、自分と自分の目の届く範囲ぐらいは、その小さな変化やつぶさな移ろいに敏感でありたいと思います。それが他ならぬ「よく生きるということ。」につながるのです。例えば子供が話す言葉の変化はとても判り易く、かつ面白いものです。これに気が付かずにいて、後後になって「知らない間に随分と生意気なコトを言うようになったもんだ。」などとぼやくのは、そういう日々の面白さを味わう機会を逃しているだけではなく、一個の人間の成長過程を、その変容の瞬間を見過ごしているのです。もう二度と戻ることはないのに。

green

時間が経つという事は昔を整理する事でもあります。部屋の中を見回すだけでも新しいものが増えて、知らない間に埋もれてしまうものもあります。片付ける作業や、新しいものの配置を考えているときに、ふと、何年か前に訪れた貴重なお店の事を思い出して、HPを覗いてみたら、BBSの書き込みは僕が書きこんでから全く更新は無いようでしたが、マスターの最新情報では新たにレコードのお店を出されるようです。その昔、やっておられたと記憶しているので、復活ということでしょうか。さてこの小さなお店ですが、僕は大好きな空間なので、無断で紹介しておきます。
http://yakata-de-voce.petit.cc/

お店のBBSに僕が書き込んだ曲、これも今の季節にはとても涼しくて最高です。レコードの針が走るノイズがまた、いいですね。

「カヨウボサノバ」について
 少し暖かくなると、僕はボサノヴァを聴きながらアイスラテを飲んでリラックスしたくなります。今日は時間があったのでネット上を色々検索していたら、久しぶりに衝撃的な曲に出会いました。ここ何年か、本場ブラジルではなく、ヨーロッパラテン系のものでもなく、ニッポンの、いわゆる昭和歌謡曲の中にも名曲があることを知って、収集はしていたのですが、僕らが生まれる直前には、何というか健全な音楽が生まれる土壌というものがあって、一つの世界、文化が成立していたんだなと羨ましく思うのです。メロディも編曲も歌詞も歌唱も、ちょっとすごくないですか?



 何年か前には、やはりこの手を好むマニアがいるのか、J-Bossaなるコンピも出ていました。僕も架空にコンピを編集したとして、ライナーっぽいものをを書いてみました。ご同輩なら頷けるのではと思いますが、どうでしょう。

 一言で言えば、このCDに集められたのは、古い歌謡曲だ。しかし、何故このCDが出来上がったのかについては、やはり動機というものがあるのであって、このCDを受け取り、聴こうとする人にとっては、星の数ほどある歌謡曲の中からこれらが選ばれた理由について、知らされておいても良いという権利がある。先入観が与えられない範囲において。
 歌謡曲とは何か。大衆音楽だ。大衆音楽とは何か。出来るだけ多くの人々の共感を呼び、多くの人間が快いと感じる事が出来る、普遍性のある娯楽だ。僕は旧来こうしたものについては掘り下げの対象とはしていなかった。説明過多であるし、表層的であるし、音楽の本質的な価値から離れて、商業的な価値としての側面がまずもって重要視されることについて、純粋な芸術に触れる喜びに資する可能性を感じていなかったからだ。
 しかしもっと大きな視点で見渡せば、少なくともアナログレコードとして発売されていた時代のこれら歌謡曲は、音楽が人々の間の共有物として扱われていた時代の産物なのであり、今のモノのようにあくまで個人的消費行為に迎合した使い捨て音楽とは全く違うのだ。実際、どのトラックを聴いても、多くの人間が係わり合い、手垢にまみれる中で産み出されているモノであることは直ぐに分かるのであり、どの曲も未来永劫、歌い続けられ、愛される事を究極的な目標にしていて、昨今のように人知れずダウンロードされ、一銭の貨幣も産み出さないうちに個人的な理由によってデリートされることなど想定の中には無いものばかりなのだ。確かに、ブラジル音楽がアメリカに渡って、それの模倣であり、言ってみればコピーのコピーに過ぎないのかも知れない。しかし、サウダーヂといわれるブラジル独特の気分や気概のこの国なりの解釈が、楽曲に新鮮で芳醇な風合いをもたらし、それが多くの人の健全な快さを運んでいた、この営み自体が、いま僕の興味を惹きつけてやまない。
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