難しい事を言うつもりはありませんが、一度きりの人生、考えてもいいと思う事は結構あります。
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本気が動かすもの
多くのファンが待っていたと思いますが、僕もその一人です。たくさんのファンに負けない「待ち」のエピソード。彼が優勝した記念といってはなんですが、僕がどれだけ気長にこの時を待ったのか、書いてもバチは当たらないと思います。
2005年のF1スペインGP。BARホンダチームの前年からの速さを見ていれば、そして、特に早かったバルセロナのコースであれば、優勝か2位か・・・といった予想しかできなかったわけです。僕は何と、そこに照準を合わせてハネムーンの行き先をF1スペインGPに。妻にBARのキャップを被せて、バルセロナまで飛び、行き先のイマイチわからない(そしてアロ○ソファンだらけの)電車に乗って、頑張ってサーキットまで歩いたわけです。しかし、一日目、二日目と、何か様子がおかしい。彼の車は走らないばかりか、BARのガレージは開けられもしない。「どうも彼は走らないみたいですね・・・」コアな追っかけ風のジャポネーゼ女子が教えてくれました。(何かユーロ至上主義的なドロ臭い事があったんかな・・・)旅行先でもあり、当時まだかの地にはネット環境も乏しかったので、真実がわからないまま決勝日になりました。少しの希望と共にサーキットへと続く道を歩いていて、とうとうこの日は僕もBARのTSのTシャツを着ていましたが、「No,B・A・R・・・」後ろからイギリス紳士風のおじさまが、哀れそうな目でそう言いました・・・。帰ってから知りましたが、まさかJB号の違反のアオリを喰うとは・・・。

次に懲りずにその年の鈴鹿です。諦めきれなかった。リベンジが必要だったと言ったほうがいいでしょう。すでに身重となっていた妻を連れて、雨の中を通いましたよ。しかし結果は一瞬でコースアウト、そして失格。

当然、妻は愛想を尽かしました。そりゃそうでしょう。ムリもない。2回も報われない経験をしたのですから。ついでに言うと他にも、日常で無言のうちに結果を求められたり、期待されたり、或いはまだ一定他人からの評価を得たことがない、そういうジンワリとしたプレッシャーに晒されているような立場の人(例えば学生等の若年世代)は、結果が出ないことに冷ややかです。これも何となく心情的にわかります。だけど、彼がそれぞれのレベルやそれぞれあったであろう崖っぷちや修羅場で、いったいどういうモチベーションや情念でこれを越えてきたのか、それを考えると、これは並大抵のことではないし、現にエピソードは数多く残されていて、それが僕を惹きつけ、多くのファンの心を掴むのです。

時は経って、フィールドは変わりましたが、このたびの優勝で、今のボス、AJさんのコメントが一番それを表しています。「今まで多くのドライバーを雇ってきたが、本気で勝ちたいと思っている奴はいなかった。しかし彼は違う。これがほんとうのレーサーである。」

如何に選ばれし指折りのレーサーであっても、本気度が周囲を巻き込んで勝ちに繫げる例は、そうめったに見られないのでしょう。極限の世界では、何もかもが神がかり的にハマッていくことがある。今回の彼の優勝がそれでした。この原動は僕は弛まない勝利への渇望、本気度に他ならないと思います。その様子は、彼の永遠のヒーローである、あの神がかったA.セナに似ています。



肌色の絵は絵空事を越えたのか
今、僕の仕事というのも地域振興みたいな事をやらせていただいているんですが・・・。うーん。
こんな事を言うのは頭が古い証拠かも知れませんが、下記のような例というのは、言ってみれば幻想が社会進出してコミュニティが活性化しているという事ですよね?
あくまで、生身の人間がお客さんを呼び寄せているんじゃなくて、擬人化した幻想を介してコミュニティというか、人間の営みが成立すると・・・。
どういうふうに捉えたらいいのでしょうか。ほんとうに、これは地域振興なんでしょうか。現代人のリアルというのは、すでに肌色の絵の中に取り込まれてしまっているのでしょうか。うーん・・・。
仕事が忙しいので、つい、つまらない事を言ってしまう。早く休みになってキャンプに出かけたいですね。

http://news.mynavi.jp/news/2013/04/18/259/index.html

これはファイナルアンサーなのか
長い間、多くの自分の考えを投稿して放置していた某掲示板の中で、今の自分が持つに至った考え方をこのブログに移植します。それは、シンプルかつ切実で、多くの人が課題としている、「(自分が)生きる意味とは何か?」という問いに対する回答です。

「生きる意味」・・・この掲示板で、このことを質問している人は数多くいます。それだけ、「生きる意味」を考えることは、多くの人の課題になっています。逆に言えば、今の世の中は、こうした問いを個人に想起させる世の中だと言えます。
例えば、あなたは生まれながらにして、「あなたが生まれたのはここからここまでの道路をつくり、維持管理するためなのです。」と決定付けられているとしたらどうでしょうか?確かに世の中の人間がみな一様に自分の生を抗えない力で決定付けられているのなら、誰も「生きる意味は」などと考えないでしょう。近代以前の封建的な社会では、これが当たり前でした。これはなにも職業の選択だけに止まらず、結婚や日常の常識とされることさえ、慣習がものをいい、そこから逸脱することは個人の裁量を越えたところにあるような時代だったので、身の回りの生活のあれこれは、万事が予定調和的な運びのうちにあって、誰も疑問には思う者はいなかったのです。
しかし、あなたも気付いているとは思いますが、今の世の中は違います。封建的な社会は滅びて、自由主義の社会なのです。誰でも、自分が思うさま、人生を歩むことができるのです。予め自分の生がどのようなものか決まっているような想定に対して、あなたが違和感を覚えるのは、あなたは「生きる意味」を問いながらも、暗黙のうちには「生きる意味」を見出すのは個人の裁量に任されているものであることをほんとうは知っているからです。
またあなたは、もう一つの違和感を持っているはずです。先の想定で、「あなたの人生はこれそれです。」とあなたに告げることの出来る存在が何なのか、そんなものはあり得ない。というものです。封建的な社会が独裁や専制の形を必要としていたように、個別の「生きる意味」を予め設定しようとするなら、それは人間を超えたところに絶対的な権力を持った何らかの存在を置かなければならないのです。今の世の中は、そんな世の中ではないことをあなたは知っているし、神様などの人間を超越した存在を信じるのは個別の志向でしかありません。
僕は神様や宗教を信じるなと言いたいのではありません。ただ、封建的な社会が滅びて、人間を越えるような存在を置くのは失敗だったと史実が証明しているからには、そういったところにはほんとうはないわけです。このように考えると、「生きる意味」というのは、少なくとも、誰が決められる訳でもなく、誰かが与えたり教えたりしてくれるものでもなさそうです。僕があなたに言えるとすれば、人間は、どんな人間でも、一生かかっても、すべての個別の人生を見渡すことなどできず、世界が何であるかを隅々まで知ることはできない。それを知っているはずなのに、誰でも今より次の瞬間を善いものにしようと活動します。まず、この事は何故なのかを考えなければなりません。そして、それをどこまで押し進めることができるのかは、全く個人の裁量であり、そこに自由があるのなら、出来る限り進めてみようと思うこと、その生き方こそ、意味を持つことだと言えるのではないでしょうか。

・・・これは正しいか正しくないか、そういう問題ではないと思います。だけど、僕はこう考えることができるようになった事により、割とスッキリした今の自分があると思いますし、もちろん、だからと言ってこれでおしまいでもない。
花の都
でも実際には、4月のパリは寒いと思います。
パリは都会です。都会だということは、人のいろいろが渦巻くところでもあります。スリも引ったくりもいれば、タクシーの運ちゃんもアクドイ事をします。車同士が平気で接触します。
だけど、もう一度いってみたい気分にさせます。
それはたぶん、未だこの街には、洒落っ気や味わいというものに敏感で、人の作り出す豊かさを大切にしようという気質があるからだと思います。

しかし巡礼ときましたか
やっぱり期待している人が多いのか、タイトルからいろいろな憶測が出ているようです。前回が記号めいていて、今回は説明的。反動なんでしょうか。

http://news.mynavi.jp/news/2013/03/15/150/index.html



そういえば、名著の誉れ高い「世界の終りと…」では、「と」のあとに「、(句読点)」はなかったですよね。

春は年度変わりで何かとバタバタするし、花粉症は厄介だわで、あまり楽しくないのですが、一つ楽しみができました。
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